『文豪の女遍歴』、小谷野敦著、幻冬舎新書、2017年。

森鴎外(1862~1922)や夏目漱石(1867~1916)から池田満寿夫(1934~1997)まで、全62名の作家たちの異性関係をつぶさに調べあげ、列挙した本です。

この本に目を通すことで読者がどのような感動をおぼえるかというと、たぶん、ほとんどまったく心は動かされないでしょう。

わたしみたいに小谷野氏(1962年生まれ)の著作を多数読んだ者は「いつもの小谷野節だな」と楽しめるのですが、これが初めてというかたは内容に落胆してしまうかもしれません。

とうてい「文豪」とは呼べない人々も俎上にのせられていますし……。

本書をおもしろく読めた場合、ご同慶の至りです。

それでも、著者の博覧強記ぶり、鋭い視点は、『文豪の女遍歴』内においてもたびたび一閃しました。

与謝野鉄幹(1873~1935)の項を見てみましょう。

結局、『源氏物語』の現代語訳など平安朝女流文学の評価から、評論、小説と活躍したのは晶子で、鉄幹は二重に晶子に去勢された(しかし子供は11人作った)ような男になってしまったのであった。そのため私は、夫婦同業で妻のほうが出世してしまうのを、「与謝野鉄幹コンプレックス」と、名づけている。(pp.49)

堀辰雄(1904~1953)の項では、代表作『風立ちぬ』を評しつつ、

「風立ちぬ、いざ生きめやも」はヴァレリーの「風が吹いた。生きよう」を訳したものだが、「めやも」では「生きるだろうか」で誤訳である。フランス語の間違いではなく日本古典文法の間違いである。(pp.164)

こう述べられています。

おかげさまで、与謝野鉄幹が妻の晶子(1878~1942)と知り合う前に作った「人を戀ふる歌」(注)に、皮肉な酸味が感じられてきました。

また、わたしが若かったころに何かで読んだヴァレリーの詩の別訳「風ぞ立つ、されば我また生くるべく努めざらんや」を、当時はゴツゴツした文章のように思ったものの、正しい訳だったと悟りました。

ご見識やご指摘が参考になるため、わたしは小谷野氏の著書をどうしても買ってしまうのです。

(注)「人を戀ふる歌」は「妻をめどらば才たけて」で始まります。

金原俊輔