『消された信仰:「最後のかくれキリシタン」-長崎・生月島の人々』、広野真嗣著、小学館、2018年。

キリスト教を信仰することが禁じられていた江戸時代に、ひそかにキリスト教徒でありつづけた集団を「潜伏キリシタン」と呼びます。

いっぽう、明治6年以降、キリスト教が解禁されたのちにもカトリック教会へ所属せず、ご自分たち独自の信仰形態を維持した人々が「かくれキリシタン」です。

上掲書は、長崎県平戸市・生月(いきつき)島のかくれキリシタンを対象に、彼らの日常や信心を取材したノンフィクションでした。

著者(1975年生まれ)は東京のかたです。

ご執筆の動機は、日本が世界遺産候補として「国際記念物遺跡会議(イコモス)」に提出した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のパンフレットにおいて、かくれキリシタンの語が消えてしまっていた事実への違和感。

生月の島名も抜け落ちていたそうです。

たしかに数は減ってはいるが、生月には現在もかくれキリシタン信徒が存在している。(pp.8)

こうした問題意識のもと、熱心な取材をなさいました。

わたしは米国留学をしていたころ、ときに、アメリカ人から「日本人が無宗教というのは本当なのか」と質問され、そんな際には「まあ本当だけど、日本史は、一向一揆や島原の乱、そして潜伏キリシタンなど、宗教への深い帰依を示した例はいくつも有している」と答えていました。

日本人として、一向一揆、島原の乱、潜伏キリシタンを、誇りにも受けとめていました。

そういうわけで本書のテーマと内容に惹きつけられました。

さて、著者は書中、何度も、

「カトリック」と「生月島のかくれキリシタン」-もとを辿ればどちらも16世紀の宣教師が伝えたキリスト教の教えから派生したはずだ。(pp.49)

「なぜカトリックに戻らないのか」という問いを自ら立て、「彼らの信仰が完全に日本化し、土着の伝統的な宗教観念と同化し、キリスト教的世界観からすでに遠いものに変容してしまっているからである」と結んでいる。(pp.150)

「どうして生月の先祖はカトリックに合流しなかったと思いますか」(pp.164)

以上の問いかけをおこなったり、紹介したり、されています。

当然の問いかけでしょう。

これに対して、心理学はどう回答するのか。

心理学に「機能的自律性」という言葉があります。

もともとは目的に到達するための手段だった事物が、いつしか、目的そのものに変容する現象です。

たとえば、高価な商品を買うために貯金していた人が、購入できる金額を超えても、貯金のほうが目的となって(商品は買わず)貯金をずっとつづけるような場合です。

機能的自律性の観点からは、潜伏キリシタンはカトリックの信仰を守るために潜伏していたとはいえ、やがて潜伏自体が目的となり、潜伏する必要がなくなってもカトリックへ復帰しようとはしなかった、そしてかくれキリシタンになった、こう見るわけです。

わたしは和光大学の学生だったころに心理学の授業で機能的自律性を学び、ちょうど独学で長崎の歴史を勉強していた矢先だったので、「あっ、これは長崎のかくれキリシタンに当てはまる」と思ったことをおぼえています。

金原俊輔