『科学がつきとめた「運のいい人」』、中野信子著、サンマーク文庫、2019年。

中野氏(1975年生まれ)は脳科学ならびに認知科学がご専門。

であるならば、たぶん上掲書ではドーパミンやセロトニンやオキシトシンが語られるだろうと予想して読みだしたところ、案の定、幾度も登場してきました。

人における「やる気」「安心感」「愛情」などに関与する物質ですので、仕方ないのかもしれません。

さて、氏が書中どこまで「運の良さ」にたいして科学的な解説をなさったかといえば、

「自分は運がいい」と思えるようにするには、いつも運のいい人のそばにいる、というのもひとつの方法です。
人の運のよしあしは、科学的にみれば、もともとその人がもっているというよりも、その人の行動パターンによって決まると考えるべきでしょう。
運のいい人のそばにいると、その行動パターンが似てきて、「運を呼び込む」ことができるのです。
人はとかく、近くにいる人間の影響を受けやすいものです。(pp.84)

こうした肩透かしの話がつづきました。

引用文を吟味すると、まず「いつも運のいい人」が存在しているはずはありません。

仮にそういう人物がいたとして、誰かが当該人物のそばにいたら、比較の結果、その誰かは「奴と違って自分は運が悪い」と思ってしまうのではないでしょうか。

「『自分は運がいい』と思えるようにする」の真逆なわけです。

ここまで書いてきて、副詞「いつも」が係っているのは「運のいい」「そばにいる」どちらであるのか判断できなくなってきました。

わたしは前者と想定し意見を書きましたが、もしも「そばにいる」のほうに係っているとしたら、ではどうやってそれほど強運な人と知り合ったり親しくなったりできるのか、たとえ親しくなれたとして常時一緒にいることなど無理ではないのか、どうにも納得できませんでした。

つぎの行に移ります。

「人の運のよしあし」が「行動パターン」によって決まる場合、それはすでに運ではなく、行動の成果、努力の賜物、と呼ぶべきものでしょう。

そもそもこの文章に「科学的にみれば」の語は不要です。

最後の2行については、書かれている中身は行動主義心理学が「観察学習」と呼ぶメカニズムで、たしかに人は「人間の影響」を受けがちな存在。

しかし、相手が「近くにいる」必要は全然なくて、われわれの日々の行動は、たとえば読物あるいはニュースでしか接した経験がないレオナルド・ダ・ヴィンチやトランプ大統領の言動からも影響を受けるのです。

さらに、観察学習の結果、観察した側にモデルとなった側の運までもが転移した、というような研究結果を、わたしは目にした記憶がありません。

論理が乱れまくっていると感じました。

ほかの例をあげます。

著者は「コイン投げゲーム」を述べつつ、

運がいい人も悪い人も、長期的にみれば、プラスの出来事とマイナスの出来事はほぼ同じ割合で起きているといえます。しかし運の悪い人はゲームを途中でおりてしまい、運のいい人は最後までゲームをあきらめません。結果、運のいい人はさらなる運を手に入れ、運の悪い人はますます運が悪くなってしまうのです。(pp.176)

こう主張されました。

前提が「プラスの出来事とマイナスの出来事はほぼ同じ割合で起きている」のですから、もはや「運・不運」をテーマにした考察とはいえないでしょう。

認知行動療法において「考えかたの癖」「自動思考」などと表現しているものを語っていらっしゃるように思われ、じつは『科学がつきとめた~』内では多数そういう箇所がありました。

タイトルに「運のいい人」なる言葉を使ったため、著者はそれに引きずられ、タイトルと中身が合致しなくなってしまったのではないか、と想像します。

以上、わたしは中野氏を批判しましたが、文章表現が一貫して平易な点を評価し、心理学の研究を多数援用してくださった点を感謝しています。

心理学者のヤーキーズとドットソンは、ラットを用いた実験で、学習の成果がピークになるのは適度にストレスがあるときで、ストレスが低すぎても高すぎてもその成果は下がる、という法則を発見しました。(pp.106)

これなどは現代人にとって有益な情報です。

金原俊輔