最近読んだ本344

『大和魂のゆくえ』、島田裕巳著、インターナショナル新書、2020年。

オウム真理教に関するご発言で悪評ふんぷんたる島田氏(1953年生まれ)。

わたしは「どのようなものをお書きになるかたなのか」と、興味本位で上掲書を読みだしました。

主題である「大和魂」は、たしかに日本人の精神を理解するために重要な概念のひとつでしょう。

とはいいつつ、わたしはこれまでの人生で、だれかが大和魂と声にだして言っている場面を見聞したことがありませんし、自分自身、大和魂の語を発した記憶がありません。

吉田松陰(1830~1859)の和歌や夏目漱石(1867~1916)の著作、はたまた各種の戦記文学などに接した折、おもに文章で目にしてきた表現でした。

われわれの日常に影響をおよぼしてはいない言葉ではないでしょうか。

さて、

大和魂ということばが使われた具体的な例として『源氏物語』の「少女(をとめ)」の帖(じょう)にある「才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(かた)も」があげられ、「漢才」ということばを参照するよう指示されている。(pp.44)

なのだそうです。

意外に古い由来でした。

用法は現在とは異なり、「漢才」つまり「中国の学問のことをさし、具体的には、巧みに漢文や漢詩を作れる能力(pp.44)」と対比するための語句であって、「日本人独特の知恵(pp.233)」なる意味合いだったとのこと。

そののち、歴史の流れとともに中身が変化し、

大和魂は、ナショナリズムと強く結びつくものである。日本が中国やロシアと戦争をくり広げ、それに勝利することで、大和魂は称揚されるようになる。(pp.234)

こうなりました。

最終的には、

大和魂が発動するのも、外部にある強力な勢力と相対したときだった。(中略)
大和魂は、普段は鎮まった状態にあり、緊急の事態が起こったときにだけ活性化されるのである。(pp.293)

なるほど、おっしゃるとおりであり、わたしが本コラム前半に記した「われわれの日常に影響をおよぼしてはいない言葉ではないでしょうか」との疑問への回答にもなります。

日本は長いあいだ戦争をしておらず(その結果「外部にある強力な勢力と相対し」ていない)、日常生活で外国人が立ちはだかってくるのは、せいぜいスポーツの国際試合ぐらいだからです。

島田氏も「大和魂とサッカーを中心としたスポーツとのかかわり(pp.33)」に注目しておられました。

が、氏がたくさんの文献を参照しながら考察なさったわりには、上記(293ページよりの引用文)は特に新しい発見とはいえないように思われます。

「肩透かし」みたいな読後感がのこりました。

また、著者が指摘されるように戦争だのスポーツだので大和魂の語が用いられるとしても、学問や芸術で日本人が外国勢に相まみえるときにその言葉が登場してこないのはなぜなのか、の考察がなされていません。

もうひとつ苦情を述べさせていただくと、本書の最後の最後になり、唐突に怪獣「モスラ」が語られだした際には(わたしはモスラが好きとはいえ)牽強付会ぶりに嘆息しました。

モスラは(中略)本能のままに行動し、善悪は分からない。(pp.299)

ほとんどすべての怪獣が同様ですし、そんな中にあって彼女はそうとう善悪をわきまえているほうです。

金原俊輔

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