最近読んだ本384
『日本史サイエンス:蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』、播田安弘著、ブルーバックス、2020年。
(1)文永の役で蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか
(2)羽柴秀吉の「中国大返し」はなぜ成功したのか
(3)戦艦大和は本当に「無用の長物」だったのか(pp.5)
日本史のなかでかなり重要視されている3つの謎・疑問を「文献のみを根拠とした推論はできるかぎり避け(pp.6)」、科学的に検証した読物です。
執筆された播田氏(1941年生まれ)は「船の基本計画を生業とし、趣味も艦艇と古船という船オタク(pp.236)」。
戦艦大和の件だけでなく、(1)の「蒙古襲来」の件も(2)の秀吉軍の「大返し」の件も、身につけていらっしゃる船舶の知識を存分に駆使し考察なさいました。
歴史にたいするこんなおもしろい切り口があったのかと、敬服いたします。
ミステリアスな雰囲気すら漂う作品でした。
ミステリーっぽさの一例を紹介すると、著者は、1582年6月、中国地方にて「本能寺の変」を知った羽柴秀吉の動きを吟味され、
秀吉は6月13日の朝には京都の山崎で布陣しているからです。(中略)
では4日のうちに出発できたかといえば、3日の夜に変を知ってそれは、あまりにも早すぎると思われます。さりとて、5日には出発していたと考えたいところで、6日の出発とすると移動日数が実質7日間しかなく、13日の朝に山崎に着くのはかなり不可能に近くなってきます。(pp.101)
こうお書きになりました。
その前後で緻密な考証を展開してくださっています。
書中、わたしがもともと関心を有していた史話は、蒙古襲来つまり「元寇」でした。
下のふたつの文章は『日本史サイエンス』に記されていた新奇な情報を漏洩する内容ではありませんから、遠慮なく引用させていただきます。
1274年10月、いまの長崎県の、
対馬・壱岐では、蒙古軍は武士のみならず島民も、赤子に至るまで虐殺しました。とくに女性は手の甲に穴をあけ、そこに縄を通して何人も繋げて舷側(ふなべり)に吊るし、矢除けにしたとも伝えられています。その真偽はともかく、蒙古軍の残虐さは日本国内の戦いではありえなかったもので、日本人は大きな衝撃を受けました。(pp.39)
博多の太宰府では10月13日の対馬からの第一報を受けて、総司令官の少弐資能(しょうにすけよし)は鎌倉に飛脚を立てるとともに、九州の御家人たちに博多に参集するよう命じました。10月18日に壱岐からの知らせも届くと、当然ながら、蒙古軍の大艦隊はまもなく博多に現れると予想されました。御家人たちは緊張のなかで武器や食料を準備し、国土防衛に向けて悲壮な決意を固めていきました。彼らが経験しようとしているのは、日本人にとっては初めての、他国からの大規模な侵略でした。(pp.41)
元寇第1回目「文永の役」にまつわる描写なのですが、読みつつ憤りおよび武者震いが起こってくる感じです。
学校時代、歴史の授業がこの辺にさしかかるや、わたしはそれまでと打って変わって真剣に先生のご説明をお聞きしたことを思いだしました。
さて、歴史に通暁している当方ではないものの、個人的に最も真実を知りたい有名な「日本史の謎」は、「源義経(1159~1189)がジンギス・カン(1162?~1227)になったのか」です。
上記の事柄は、
高木彬光著『成吉思汗の秘密』、光文社(1958年)
を読んで以来、興味をもつようになりました。
元寇の当時、ジンギス・カン帝はすでに崩御しており、直接の関与はありません。
ただ『成吉思汗の秘密』で、蒙古軍の日本強襲の裏事情について作中人物が推理をおこなう場面を、いまだおぼえています。
義経がジンギス・カンだった可能性などほぼないとはいえ、好奇心をそそられるテーマです。
わたしが他に抱いている疑問は「聖徳太子(574~622)は実在したのか」「坂本龍馬(1836~1867)暗殺の首謀者はだれか」あたり……。
長崎人として「『島原の乱』の天草四郎時貞(生年不詳~1638)が生まれた土地は、長崎県だったのか熊本県だったのか」も気になります。
金原俊輔