最近読んだ本359
『本当の武士道とは何か:日本人の理想と倫理』、菅野覚明著、PHP新書、2019年。
東京大学で日本倫理思想史を教えていらした菅野氏(1956年生まれ)が「武士道」を多面的に解説した本です。
書中あちこちで紹介される武士たちの話。
どれもたいそう興味深く、例をあげれば、
武士は、何か身に迫る問題に直面した瞬間に、刀を抜き、人を斬る覚悟を持っていなければいけない。その精神を「脇差心(わきざしごころ)」といいます。(pp.20)
殺気がみなぎる覚悟です。
上記引用の前後で紹介された「脇差心」の重みを示すエピソードは、すさまじい内容でした。
さて、わたしがイメージしてきた武士道には、根本に「もののあわれ」が位置しています。
菅野氏も、
武士たちは、もののあわれを知る心の深さが、強さに比例すると考えていました。「やさしさと強さは一つである」という思想こそ、武士道の真髄だったのです。(pp.108)
お墨付きを得たようで嬉しいです。
ただ、わたしの場合、もののあわれと孟子(紀元前372?~紀元前289?)が唱えた「惻隠の心」とを結びつけ、孟子の言説が日本へ渡来して武士道精神に入り込んだのではないか、こう想像していました。
いっぽう著者は、もののあわれと「やさしさ」を同義と看做(みな)しつつ、江戸時代の儒学者の言葉である、
あくまで顔は、相手から恐れられるほどに冷ややかでなければならない。しかし背中には、温かいものがある。胸のなかは、あくまで公平無私で、私情が入る余地などない。(中略)
腹のなかには「まごころ」がつまっている。これが武士道が理想とした、強さとやさしさが一つになった人間の姿です。(pp.109)
を提示されました。
わたしなどより遥かに幅ひろい知識です。
なお、菅野氏ご自身も孟子の存在を重視しておられました(たとえば、32ページ)。
目からウロコの話題としては、
最終的に武士たちは、信長・秀吉流のやり方を武士の理想とは認めませんでした。(中略)
江戸時代に、武士のあるべきありよう(武士道)として認められたのは、結局、名誉や義理を捨てることなく強さを追求した、武田信玄や徳川家康の流儀だったのです。(pp.154)
考えてもみませんでした。
いわれてみればそのとおりで、当時の「武士たち」どころか、現代のわれわれだって織田信長・豊臣秀吉を武士道の体現者とは思っていないでしょう。
江戸期、徳川家康が「武士の鑑(かがみ)」だったであろうことは(幕府に押しつけられたでしょうから)類推できますが、これまた、いまの日本人は家康に対してそれほどの敬意を有していないのではないでしょうか。
武田信玄でしたら、かなり頷(うなず)けます。
わたしだと、ほかに、上杉謙信、大谷吉継、山中鹿之助、高山彦九郎、武市半平太、山岡鉄舟、あたりの有名どころも思い浮かびます。
そして無名だけれど「いかにも武士、みごとな武士」だった人々は、日本史のなかに大勢いたでしょう……。
最後に、もうひとつの目からウロコ。
なぜ掃除をするのか。それは、戦闘者とは「見る存在」であるからです。見る力が強いほど、その武士は強い。(中略)
実は、掃除とはそういうことなのです。隅にホコリがあることに気づくか、気づかないか。(pp.28)
剣道では、稽古の前と後に道場をきっちり掃除します。
わたしは「むかしは準備体操・整理体操の概念がなかったため、剣士らは掃除で身体をほぐしていたはず、きっとその名残りなんだろう」と受け止めていました。
完全な間違いだったようです。
金原俊輔