最近読んだ本419
『カール・ロジャーズ:カウンセリングの原点』、諸富祥彦 著、角川選書、2021年。
上掲書は、株式会社KADOKAWA様が、わたし宛てにお贈りくださったものです。
なぜ自分のような無名の心理学徒に大手出版社が新刊贈呈をしてくれたのか、困惑しつつ読みだしてみると、書中、わたしがむかし書いた論文が登場してきました。
金原俊輔「カール・ロジャーズの生涯」(収録:長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所『研究紀要』11巻1号、2013年)
です。
なるほど、わが論文をおつかいになった諸富氏(1963年生まれ)がおそらくわたしへのご著書送付を版元に進言なさり、KADOKAWA社が同意して手配されたのだろうと、察しがつきました。
光栄です。
丁重なご配慮にたいし衷心より御礼申し上げます。
さて、カール・ロジャーズ(1902~1987)は、アメリカの臨床心理学者でした。
「クライアント中心療法」創始者として知られ(クライアントとは「来談者」をさす英語)、カウンセラーの傾聴を重んじたこと、受容・共感・一致がカウンセリングにおける必要十分条件だと提唱したこと、などでも有名です。
そして『カール・ロジャーズ:カウンセリングの原点』。
ロジャーズの生涯・業績・思想を細大もらさず記載した、専門性が高い労作でした。
仕事に没頭するロジャーズの真摯な様子が活写されていて彼に敬意をいだきましたし、また、本書を執筆なさった諸富氏のロジャーズへの傾倒ぶり、氏が営々とロジャーズ研究に勤(いそ)しまれるお姿、これらも感じられ好感が湧きおこります。
ロジャーズの情熱、諸富氏の情熱、「情熱の二重奏」みたいな雰囲気がただよっていました。
わたしは諸富氏のロジャーズ関連書籍を多数拝読したのですが、新しい作品に接するつど、かならず新しい情報が掲出されており、たゆまぬご研鑽に脱帽せざるを得ません。
今回の『カール・ロジャーズ』も初めて知る事項に満ちあふれていました。
たとえば、ロジャーズ、ユージン・ジェンドリン(1926~2017)、の師弟関係。
諸富氏は生前のジェンドリン博士を訪ねられインタビューをおこなったうえで、博士が恩師の胸を借り学問的成功をおさめた経緯をつまびらかになさっています。
わたし自身、ロジャーズとジェンドリンについて調べた時期があったものの、調べにより獲得した情報は、諸富氏がこの本で示された情報量に全然かないませんでした。
初めて知った別の事項。
当方は大学教員だったころ、ロジャーズおよび彼のチームがクライアント中心療法を統合失調症のかたがたに適用すべく実施した「ウィスコンシン・プロジェクト」を検証したことがあります。
検証の途次入手したデータだのエピソードだのは、やはり、諸富氏が『カール・ロジャーズ』内で記していらっしゃるデータ・エピソード数に太刀打ちできません。
チャーリー・トゥルアックスなる人物が鍵でしたか……。
本作をもって諸富氏の集大成とお呼びするのは早計でしょうが、そう呼んでもあながち的外れではないような完成度の読物でした。
「ロジャーズは日本に諸富氏という『自分の語り部』をもっていて、幸せな学者だな」、こんな読後感にいたりました。
いっぽう、わたしは(クライアント中心療法を貴ばない)行動療法のカウンセラーで、そのせいかロジャーズや諸富氏のご意見に反駁をおぼえます。
往年、
金原俊輔「ロジャーズ学説に係る疑問と異論および否定的データの展望」(収録:日本臨床心理学会『臨床心理学研究』第52巻第1号、2014年)
という論文を発表したので、これを援用しながら説明しましょう。
当該論文では「文献検索」をとおしロジャーズ学説全般への批判を収集したのですが、そのうち、クライアント中心療法にたいしては、
(1)治療契約を交わしがたい、(2)成長を希求していないクライエントへの対応が想定されていない、(3)カウンセラーとクライエントの関係が人工的、(後略)。(金原論文、pp.15)
(1)人間の本質を肯定的にとらえすぎている、(2)実現傾向を信じすぎている、(3)自己崇拝をしている、(4)単一文化に根ざしている、(5)普遍性を主張しすぎる、(6)パラダイムが混交している、(7)治療関係の理解が素朴すぎる、(8)ロジャーズの慈悲心に疑問がある、(9)外的要因を軽視している、(10)相互性が欠如している、(11)人間の発達に関する理論が欠如している、(12)人格理論と精神病理学が不十分である、(13)研究において厳密さが足りない、(14)必要十分条件に科学的証拠が欠如している、(15)共感に依拠しすぎている、(16)転移などを軽視している、(17)アセスメントを軽視している、(後略)。(金原論文、pp.18)
こうした指摘を見出しました。
以上を念頭に『カール・ロジャーズ』書を読むと、既述したごとく反駁が発生、かといって(本コラムの字数が大幅に増えてしまうため)駁論ひとつひとつを述べるわけにはいかず、そこで2例のみをあげることにします。
「クライアント中心」とは、「クライアントの内的な世界」「クライアントの内側の世界」を中心にする、という意味である。
セラピストは自分を消して、クライアントの内側の世界に完全に没入する。自分を消して、クライアントの内側、クライアントのフレーム(ものの見方、感じ方、考え方の枠組み)の内側に入り込んで、そこを立ち位置として、内側からその人の住んでいるこころの世界を見る。感じる。味わう。ありありと想像して、その人そのものに、なりきる。こうした徹底度において、「クライアント中心療法」における「クライアント中心」という言葉は使われているのであり、そうでなければ一つの学派を名乗る資格はないだろう。(pp.210)
この引用に、わたしの論文で報告した表現を当てはめれば、カウンセラー・クライアント間の「関係が人工的」、「相互性」は皆無、「治療関係の理解が素朴」、「普遍性を主張しすぎ」、おまけにご主張は「自己崇拝」にしか聞こえません。
他者からほんとうに理解され受け入れられた人間は、しかもそれが相手の真実の姿だと思われたならば、生命としての力を活性化させ、困難から立ち直り、おのずと成長していくはずだ。必ずそうなるはずだ。ロジャーズの「必要十分条件説」は、一見化学方程式のような装いをとりながら、人間に対する、そして、人を理解し援助するということに対する、絶対的な信頼に裏打ちされたものであった。(pp.288)
前の引用にひきつづき「治療関係の理解が素朴」であり、「実現傾向を信じすぎている」、「必要十分条件に科学的証拠」はともなっていない、あまつさえクライアントに影響しているはずの「外的要因」は度外視、いったいロジャーズ派のカウンセラーたちは「治療契約」をどう結んでおられるのだろう、と首をかしげてしまいます。
クライアント中心療法は、いくぶんカルトに近く、もしくはロジャーズを教祖に奉った新興宗教のようでもある、と思いました。
つけ加えとして、傾聴の問題を書きます。
ロジャーズの「傾聴」が持つこの世界での大きな意味は、決して理解されなかったし、今も理解されていない。ロジャーズの言葉は届かなかった。(pp.340)
傾聴がかくも意味不明な言葉だとしたら、学術用語として成立していない、人々が共通理解をできない概念、と見なすべきではないでしょうか。
金原俊輔