最近読んだ本518:『人類は何を失いつつあるのか』、山極寿一、関野吉晴 共著、朝日文庫、2022年

霊長類学および人類学を研究していらっしゃる山極氏(1952年生まれ)。

探検家で医師の関野氏(1949年生まれ)。

上掲書は、お二人がそれぞれの専門領域における知見を踏まえ、人間さらには世界に関し対談をおこなったものです。

読書前、わたしは今まで心理学に携わってきた結果すこしぐらい山極氏・関野氏の話についてゆけるだろうと期待したのですが、期待は覆(くつがえ)され、こちら程度の浅識ではご両所の学殖に追いつけませんでした。

まず、

山極  子どもが数人で遊んでいるとき、いくつかのオヤツを渡されたとします。すると平等を前提に、そのうちのいくつが自分のものか、算数なんてできないはずなのに瞬時に判断できる。これを「自然の数学」と呼びます。これは人間の子どもなら誰だって持っている能力です。
しかし、サルはこの「自然の数学」の能力は持っていません。(pp.141)

「自然の数学」……。

発達心理学であつかっていそうなテーマで、実際あつかっているかもしれないものの、わたし自身にとっては新説です。

つぎに、関野氏は「『世代間で行われていた教育』が失われてしまった(pp.191)」ことを問題視されつつ、

関野  アラスカの、クジラやセイウチを捕っているエスキモーの村などでは、年寄りへの評価が都市部とはまるで違います。(中略)
獲物を引き上げたあとは解体を指導する。「もっと右にナイフを入れろ」とか「骨の肉はこう外せ」とか。そして、そんな年寄りの指示に若者が従っているんです。
イヌイットの村に限らず、そうした場では、年寄りが生き生きとして、文化や伝統、自分たちのアイデンティティーを次の世代に受け継ぐ教育の役割も果たしているわけなんですね。
山極  日本でいえば、そうした場の役割をいまも辛うじて果たしているのが、お祭りですね。(pp.192)

なるほど。

わたしが住む長崎市には「おくんち」という伝統的な祭りがあって、この行事は年配者が指導しないと準備も実施も進まないらしく、どうりでとっくに還暦超えの同級生らが嬉々として参加しているわけです(難儀そうなため当方は手伝った経験なし)。

いずれにせよ教育心理学や家族心理学は引用に出てくる事象にほとんど目を向けていない気がしました。

最後です。

山極  アフリカの狩猟採集民は、自分で矢も弓も綱も作れるんだけど、わざわざ持っている人から借りる。すると道具を貸してくれた人と獲物を分けるようになる。道具作りも狩りも、ひとりでやれば獲物を独り占めできるんだけど、あえてそれをしないわけです。(後略)
関野  狩猟採集民にとっては、それが人と人との繋がりを維持するための装置で、基本的な「人間の暮らし」だといえるのかもしれませんね。(pp.194)

「狩猟採集民」の行動様式。

おそらく進化心理学などが調べているでしょうけれども、わたしはまったく存じませんでした。

以上、『人類は何を~』は、現代人に直結していないように思える霊長類それに地球上各地の先住民の話題が、実は直結しており、読むこと知ることで自分たちへの気づきが導きだされる、そんな一冊です。

山極氏と関野氏が想定なさった「人類が失ったもの、失いつつあるもの(pp.293)」は複数存在し、看過できないものばかりと感じさせられました。

金原俊輔