最近読んだ本655:『教養としての文明論:「もう西洋化しない」世界を見通す』、呉座勇一、與那覇潤 共著、ビジネス社、2024年

呉座氏(1980年生まれ)と與那覇氏(1979年生まれ)。

どちらも東京大学を卒業され、2024年現在ご活躍中の論客です。

上掲書は、おふたりが文明論の古典5冊を題材にしつつ「『いま』を語る(P. 7)」ことを企図した、対談形式の作品でした。

読んでみると「『いま』を語る」より、俎上(そじょう)に載せた書物自体への言及が多め。

したがって『教養としての文明論』は要するに「文明論」論だったと言って良いでしょう。

それはそれで構いません。

呉座・與那覇両氏の博識ぶりと明晰な頭脳に圧倒されながら、読書を楽しみました。

5冊のうち、わたしが繙(ひもと)いたことがあるのは、

梅棹忠夫 著『文明の生態史観』、中央公論社(1967年)

丸谷才一 著『忠臣蔵とは何か』、講談社文芸文庫(1988年)

のこりの3冊には目を通していないため、呉座氏や與那覇氏の高度なご議論についてゆけませんでした。

そこで今回の当コラムでは、書評でなく、わたしが有している文明論への意見を述べさせていただきます。

さて、とつぜん話が飛びますが、わたしが学んだ心理学では、人間の性格を把握するにあたり「類型論」および「特性論」のふたつのアプローチを採用してきました。

類型論とは、人々をいくつかのタイプ(類型)に分けて理解する方法で、ドイツのエルンスト・クレッチマー(1888~1964)の、やせ型の人はまじめで控えめ、肥満型の人は陽気かつ温厚、筋肉型の人は几帳面、なる類型がよく知られています。

スイスのカール・ユング(1875~1961)も彼独自の類型を提示しました。

特性論とは、だれもが多様な特性を等しく備えており、ひとつひとつの特性の強弱によって性格に違いが現われる、という考えかたです。

アメリカのレイモンド・キャッテル(1905~1998)は、人間における160種類の特性を見出し、そのうち16種類が性格を構成する根源的な要素である、と論じました。

以降、心理学研究の流れにともない、類型論の影響力は衰え、特性論のほうが重視されだしてきています。

現在は、いろいろな特性の中で「ビッグ・ファイブ(とくに大事な5つ)」を抑えさえすれば十分、こうした合意にいたりました。

ビッグ・ファイブとは、外向性、協調性、誠実さ、情緒の安定、開放性、です。

ここで話を文明論へ戻しますと、『教養としての文明論』で取りあげられた古典には、梅棹書を筆頭に、かなり類型論っぽさが漂っています。

與那覇:  さて、それでは梅棹さんの文明論の内実を見てゆくと、(中略)日本とヨーロッパからなる「第一地域」が東西の両端にあり、これは中世期に封建制が成立した点で共通すると。
一方その両者に挟(はさ)まる「第二地域」、つまりはユーラシア大陸ですが、こちらは分権的な封建制ではなく巨大帝国が成立する点が特徴である。(P. 28)

のごとく……。

心理学では特性論が主流となっているわけですから、いっそ軌を一にし、どなたか特性論的な文明論を発案・展開してみてはいかがでしょう?

むろんビッグ・ファイブみたいに数を絞って結構と思います(かならずしも5つにする必要はありません)。

以上が当方の見解です。

蛇足となりますが、

ルース・ベネディクト 著『菊と刀: 日本文化の型』、社会思想社(1948年)

中根千枝 著『タテ社会の人間関係: 単一社会の理論』、講談社現代新書(1967年)

土居健郎 著『「甘え」の構造』、弘文堂(1971年)

この有名な3冊、方向としては(あるいは、工夫次第では)文明の特性論につながる可能性がうっすらあったものの、結局、つながっていません。

上記が理由ではないにせよ、わたしは「3冊ともエッセイに過ぎず、社会科学の検証に耐え得る内容ではない」と感じています。

金原俊輔