最近読んだ本659:『宋美齢秘録:「ドラゴン・レディ」蔣介石夫人の栄光と挫折』、譚璐美 著、小学館新書、2024年

宋美齢(そう・びれい、中国上海市生まれ、1898~2003)に焦点を合わせた書籍を読むのは今回が初めてです。

とはいえ、台湾や中国の歴史を語る本の中にしばしば彼女が登場してきたため、宋美齢がどんな人なのか、わたしは少しだけ知っていました。

台湾の初代総統・蔣介石(1887~1975)の妻であり、孫文(1866~1925)夫人・宋慶齢(けいれい、1893~1981)の妹です。

蔣介石だの孫文だのといった歴史上の大物たちと接点があった女性がつい先日までご存命だった事実に驚かされます(彼女は105歳だったときに亡くなりました)。

わたしは今「蔣介石だの孫文だのといった歴史上の大物たち」と書きましたが、宋美齢自身もまた歴史上の人物でした。

なにしろ日中戦争当時、上手だった英語を駆使して「南京から英語で対米放送を(P. 19)」おこない「米国ばかりか世界の人々に大きな影響を与えた(P. 31)」わけですし。

さらに、第2次世界大戦中の「1943年11月、エジプトのカイロで行われた米・英・中三カ国の首脳会談(P. 200)」いわゆる「カイロ会談」に、夫(蔣介石)の通訳として参加したのですから。

それほどまでに世界情勢に相交(あいまじ)わった宋美齢の伝記。

歴史の一端を垣間見ることができる内容でした。

著者の譚氏(1950年生まれ)は、東京でご誕生、横浜育ち、現在はアメリカ合衆国に住んでいらっしゃる女性です。

宋美齢のみならず、美齢の親、兄弟姉妹、美齢の配偶者および兄弟姉妹の配偶者たち、の情報をくわしく記してくださいました。

ところで、美齢がなぜ流暢な英語を話せたかというと、彼女の両親は共に、

敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、(中略)子供たちを上海にあるミッションスクールに入学させて英語を学ばせ、将来はみな米国の大学へ留学させようと考えていた。(P. 36)

じっさい、子どもたちはアメリカ留学を経験しました。

1909年夏、靄齢、慶齢と合流してサマーキャンプに参加した美齢は、そのまま姉たちと一緒にジョージア州のウェズリアン女学校へ向かった。(P. 71)

説明を加えれば、宋靄齢(あいれい、1889~1973)は美齢の長姉。

ウェズリアン女学校は現地で有名な女子教育機関です(ちなみに、当方がかつて勤めていた長崎ウエスレヤン大学の姉妹校に近い学校)。

約10年の留学を終えたのち、母国に戻った美齢が中国語会話を不得手としたり、中国社会の生活様式になじめなかったり、妻帯者であった蔣介石と知り合って結婚したり、長い戦争を経験したり、次姉の慶齢が日本で孫文と結婚式をあげたり、体調がすぐれなかった際に「訪米して治療を受けるように」というルーズベルト大統領夫妻の手紙を受け取ったり、など、この『宋美齢秘録』は、彼女の苦労、錚々(そうそう)たる顔ぶれや教科書に出てくる重大なできごととの関わり、が活写された一冊でした。

ゆいいつ物足りなかったのは、台湾における彼女の振る舞いがあまり書かれていなかったことです。

第9章「挫折の台湾時代」なる章が設けられてはいましたが、中身はほとんど蔣介石の話。

蔣は台湾の地で独裁制を敷き、台湾人たちを苦しめました。

妻である美齢がその悪行に関与していなかったとは到底考えられません。

日本統治時代の台湾神宮跡地に彼女が建設した圓山大飯店(えんざんホテル)には、脱出用の地下道がありますから、自分たち夫婦がそれを必要とする局面が出来(しゅったい)し得るとの認識をもっていたのではないでしょうか?

著者が「中国人の父と、日本人の母の間に(P. 287)」生まれたかたであるため、台湾でのご取材が深まらなかったのかもしれない、と思いました。

金原俊輔