最近読んだ本661:『天才たちのインテリジェンス』、佐藤優 著、ポプラ新書、2024年

作家および評論家として活躍されている佐藤氏(1960年生まれ)が現代の「天才たち」10名をゲストに迎え、語り合った対談集です。

登場人物を職業別で見ると、最多だったのは学界に身を置くかたがた、ほかに、漫画家・小説家・臨床心理士といった顔ぶれも含まれていました。

漫画家は、

『闇金ウシジマくん』、小学館(2004年~2019年) 「最近読んだマンガ12」

の作画者・真鍋昌平氏(1971年生まれ)。

わたしは同氏のファンですので、関心をもって談話をお読みしました。

真鍋  デビュー前の20代半ばに一念発起して、バイトを一切やめてマンガに専念した時期があります。(中略)そのときの生活費は全部、消費者金融で借りました。(中略)
今より面白いことがしたいと思ったら絶対にリスクはつきものじゃないですか。(P. 42)

リスクを負うにもほどがあると心配になるいっぽう、そのおかげで日本文化は「ウシジマくん」という特異なキャラクターを獲得できたと感じます。

つぎに、臨床心理士の東畑開人氏(1983年生まれ)。

氏のお名前は、カウンセリングをおこなっていた際にクライエントの女性から伺ったことがあり、ご著書にも(一冊だけながら)目を通しました。

非科学的な事柄と親和性が高い人物で、われわれ行動主義心理学者とは「水と油」みたいなご存在です。

東畑  僕はカトリックなのですが、臨床心理学の最大の弱みを考えたとき、やはり死生観の問題があるのかなと。(中略)
医療と宗教ってもともと混然一体としたところにあったもので、それが最後に死を思うとき、同じところに来るんだろうなという気はします。(P. 85)

わたし自身カトリックであり、また「医療と宗教ってもともと混然一体としたところにあった」件は歴史上の事実と認めます。

しかし当方、「医学の祖」と称されるギリシアのヒポクラテス(紀元前460年?~同370年?)が、医学を迷信や呪術と峻別し実証科学に昇華させようとした英断を尊敬しているのです(ヒポクラテスが生きていた時代に「科学」の語は用いられていませんでしたけれども)。

科学であるべき臨床心理学が「死生観」なる大仰かつ主観的な(要するに、宗教的な)到達点をめざす必要などないでしょう。

もうひとつ。

東畑  サイコセラピーの目的って最終的に何だろうと考えたとき、人間を信じることができるか、だと思うんです。(P. 89)

引用した東畑氏のご見解が「他者を信じること(P. 89)」を意味している場合、他者を信じていなかったクライエントがカウンセリングによって信じるようになる変容は、クライエントがそれを希望なさったのでしたらカウンセラーとして尽力するのは当然である反面、希望なさっていないのにそう仕向けるのは倫理にもとる操作。

注意が必要です。

もっとも、カウンセラーは滅多にそんな変容を起こせませんが。

ついでに私見を申しますと、安易に他者を信じることは、思考停止して他人に自分をゆだねる、危うい行為なのではないでしょうか?

引用文が「自分というものを信じること(P. 89)」である場合、人は元来(カウンセリングを受けたりしなくても)自分を信じている、信じる度合いに濃淡・強弱があるだけ、自分が自分を信じていると気づいていないだけ、「自分を信じることができない」は実態を反映していない言い回しに過ぎない……。

つまり、東畑氏は空疎な「目的」を言挙(ことあ)げしていらっしゃる、と思われます。

そもそも、わたしは、

アルフィ・コーン 著『報酬主義をこえて』、法政大学出版局(2001年)

において、米国の心理学者B・F・スキナー(1904~1990)が、

セラピストは人間を変えはしません。セラピストはその人間の生活史に何かを付け加えるだけです。(コーン書、P. 397)

と述べたように、カウンセラー/セラピストがおよぼし得る影響はクライエントの「生活史に何かを付け加えるだけ」のごく小さなことと予見しておくのが現実的であり、謙虚でもある、と考えています。

『天才たちのインテリジェンス』の中では、建築学者・小林茂雄氏(1968年生まれ)がお示しになった、科学データに基づき住環境改善に取り組むご姿勢に、賛意をおぼえました。

金原俊輔