最近読んだ本678:『宮内官僚 森鷗外:「昭和」改元 影の立役者』、野口武則 著、角川新書、2025年

上掲書ではふたつの主題が論じられました。

ひとつは、陸軍を退役後に宮内省高官となった森鷗外(1862~1922)が、皇室史の編さんや元号制度の整備に携わった件。

もうひとつは、鷗外の有名な遺言の件です。

最初に、ひとつめの主題の感想について語らせていただくと、専門知識が要求される役職に就くだけのことはある、鷗外の豊かな教養が印象的でした。

そもそも彼の「知識や取り組んだ分野の幅広さ(P. 23)」は「テエベス百門の大都(P. 23)」と讃えられるほどだったのは周知の事実。

宮内省「帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)(P. 3)」は博学さを存分に発揮できる任務であったのです。

とはいえ、本書27ページに記されていた首相・西園寺公望(1849~1940)の物知りぶりは「豊かな教養」どころではなく「歩く文学部東洋史学科」「ライバルはAI」と表現しても差しつかえないぐらいのすさまじさでした。

なお、鷗外は大正11年に没したため、当人が「昭和」という元号を考案したわけではありません。

つづいて、もうひとつのほう。

まずは遺言の一部を抜粋します。

余は石見人(いわみのひと)森林太郎として死せんと欲す。
宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間あらゆる外形的取扱ひを辞す。
森林太郎として死せんとす。
墓は森林太郎墓の外(ほか)一字もほる可(べか)らず。(P. 21)

なぜこんな遺言にしたのか、著者の野口氏(1976年生まれ)および他の識者たちによる各種推察が紹介されました。

野口氏は、

遺言で鷗外が一個人として死に赴きたいと書き残したのは、国家への憤りが前提となる。栄典辞退はその表現だった。(中略)
「石見人」の対義語は、国家に尽くす「近代官僚 = 近代日本人」ということであろう。
つまり、「近代日本人」として死ぬことを拒んだのだ。(P. 327)

と、述べていらっしゃいます。

失礼ながら、意味がよくわかりませんし、説得力も不足しているのでは……?

わたし自身は「石見人」の対義語を「薩摩人・長州人」と見なしました。

理由はこうです。

陸軍省を退いた鷗外はなぜ宮内官僚として再出仕することになったのか。その人事の背景には、元老・山県有朋(やまがたありとも)の存在が欠かせない。(P. 127)

明治20年代前半の明治政府は長州閥と薩摩(さつま)閥という二大勢力が支配し、長州閥では初代首相の伊藤が最有力者で、山県はその次との位置づけだった。
津和野(つわの)という小藩出身の鷗外が軍官僚として出世する上で、隣藩である長州の有力者とのパイプを持つに越したことはない。(P. 131)

鷗外が(中略)山県の後ろ盾を得たということは、政府の要所に張り巡らせた山県閥の一角に組み込まれたことを意味する。(P. 152)

山県は鷗外のために人事を尽くしてくれた。(P. 154)

山県閥の支配にも陰りが見え始めた。(P. 157)

山県自身が失脚したことは、宮内省内の権力構造に変化をもたらした。(P. 251)

1921(大正10)年2月19日、宮内大臣に牧野伸顕(まきののぶあき)が就任したことが鷗外に暗い影を落とすことになる。(中略)
牧野は、薩摩藩士として明治維新の立役者だった大久保利通(おおくぼとしみち)の次男である。(P. 190)

結局、鷗外の事業は牧野体制下で縮小、遅滞を余儀なくされた。(中略)
宮内官僚としての鷗外は牧野に敗れ、そして、伊東にも敗れた。後ろ盾だった山県を失った状況では、どうすることもできなかった。(P. 259)

長州(現在の山口県)閥に身を置いていた鷗外が、薩摩(鹿児島県)閥の圧迫で言わば干され、「敗北感と屈辱を味わう中で死を迎えたことは想像に難くない(P. 250)」のです。

彼は薩長閥というものに飽き飽きしたことでしょう。

だから、長州人でなく、むろん薩摩人でもない、どちらとも無関係な石見(島根県)出身の「一個人として死に赴こうとした(P. 297)」のではないか?

わたしは上記のように考えました。

金原俊輔