最近読んだ本696:『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』、三宅香帆 著、集英社新書、2024年

三宅氏(1994年生まれ)は「子どものころから本が好き(P. 14)」な「文学少女(P. 14)」だったそうです。

しかし、京都大学大学院を経て、IT企業にお勤めになるや、

はたと気づきました。
そういえば私、最近、全然本を読んでいない!!!(P. 15)

とうとう3年半後に退職なさり、昨今は「批評家として、本や漫画の解説や評論を書く(P. 17)」お仕事に就かれています。

そんな著者が、

「いや、そもそも本も読めない働き方が普通とされている社会って、おかしくない!?」(P. 18)

引用の問題意識をおもちになって『なぜ働いていると~』を執筆されました。

わたしはもっともな問題意識と思い、本書を開いたところ……。

内容に満足できませんでした。

なぜ満足しなかったのか?

おもな理由を3つ書きます。

まず、全285ページのうち約200ページにわたって、わが国の明治時代から現代にいたるまでの出版史・書籍史みたいな話が記されており、興味深い情報ではありました。

けれども、こうした情報の羅列は本書のタイトルとかけ離れている、と感じたのです。

2つ目に、

大正時代から戦前、「教養」はエリートのためのものだった。
だが戦後、じわじわと労働者階級にも「教養」は広がっていく。(中略)
50年代半ばまでに(中略)教養は、家計の事情で学歴を手にできなかった層による、階級上昇を目指す手段だった。(P. 105)

三宅氏のご意見は、福間良明氏(1969年生まれ)という学者の論文に基づいたものなのですが、福間論文は「低学歴のコンプレックスをいくらかでも和らげたであろう(P. 106)」、「自尊心を少なからず満たすものでもあった(P. 106)」、こう述べているだけで、「階級上昇を目指す手段」とまでは言っていません。

我田引水、牽強付会(けんきょうふかい)、ではないかと思います。

もうすこし批判させていただくと、「労働者階級」の「教養」は「階級上昇を目指す手段だった」なる大問題をあつかうような場合、ひとつの論文だけでなく類似の考察をしている複数の文献を参照する、何らかの統計結果を示す、当時を知る人たちに聞き取り調査をおこなう、といった学術的手続きを経なければなりませんでした。

3つ目です。

労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。……当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIG tomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見える。(中略)
80年代になると、学歴ではなく、「コミュニケーション能力」を手にしていないコンプレックスのほうがずっと強くなったのだ。(P. 149)

著者は「『BIG tomorrow』は1980年代に人気を(P. 148)」博していたことを上記文章の根拠となさっているのですが、ならば同誌の発行部数はいかに他誌を圧倒していたか、われわれ読者が状況を把握できる数字が必要。

また、『BIG tomorrow』誌が往年、毎回コミュニケーションの話題に終始していたとか、繰り返しコミュニケーションに関する特集を組んでいたとか、とにかく同誌の売りはコミュニケーションであった、という事実を明示すべきでした。

ちなみに、私事ながら、「1980年代に」「サラリーマン」だったわたしには、日本の職場で「教養」「学歴」より「コミュニケーション能力」のほうが「必要」とされていた旨の心おぼえがないうえ、『BIG tomorrow』を読んだこともありません。

以上、わたしが感じた瑕疵(かし)を書きました。

最後につけ加えますと、本書の結論は、

働きながら本を読める社会をつくるために。
半身で働こう。それが可能な社会にしよう。(P. 266)

であり、「全身全霊で働くことをやめよう(P. 271)」です。

上野千鶴子氏(1948年生まれ)の発言がヒントになっている模様。

著者がどんなご主張をなさろうと、それは著者のご自由であるいっぽう、「半身で働こう」は個々人のありかたの是正に過ぎず、本を読む時間やエネルギーを奪い取るほど厳しい労働環境のほうには手をつけないという意味合いが漂ってしまうため、わたしは賛同できませんでした。

また、「半身」を主張なさる著者のことですので、おそらく本書は半身で執筆なさったと想像され、そのせいで当方が指摘したような瑕疵が出てきてしまったのではないでしょうか?

「全身全霊」を傾けるべきでした。

金原俊輔