『最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常』、二宮敦人著、新潮社、2016年。

2016年11月現在、かなり話題になっている本です。

わたしは評論家の江藤淳氏(1932~1999)が「夏目漱石の『三四郎』は東京帝国大学という秘境を世間に知らしめる狙いをもった小説だった」と発言したことを思いだしました。(注1)

『最後の秘境 東京藝大』も同じ着眼のノンフィクションなのだろうと想像し、さっそく読みました。

どうやら江藤発言とは無関係みたいでした……。

著者・二宮氏(1985年生まれ)の奥様が東京藝大生でいらっしゃり、日々、一風変わった言動をお示しになるので、しだいに夫として藝大自体に関心をもちだして執筆が始まった由です。

各種のおもしろいエピソードが紹介されていました。
藝大在学生たちとのインタビューも多数おこなわれており、なにより文章がわかりやすかったです。

しかし、上掲書への率直な読後感を書かせてもらえば、「やや期待はずれ」でした。

なぜかというと、本に記されているすべては、東京藝大にかぎられた話ではなく、ほとんどの音楽大学や美術大学に共通していることと思われたからです。
また、芸術系大学を超えて、特定の領域に特化した他の諸大学にも当てはまる傾向が紹介されていた、ともいわざるを得ません。

東京藝大を秘境と結論するための掘り下げが不足しているような気がしました。

書中にあった記述を、たとえば日本体育大学を引き合いに用いながら、見てゆきます。

「とにかく練習ですね。授業のない日なら、だいたい九時間くらいは自主練します。休憩を挟んで、三時間を三セットという感じで。(中略)毎日です。一日ピアノに触らないと、三日戻ると言いますから」(pp.119)

日体大「とにかく練習ですね。授業のない日なら、だいたい九時間くらいは自主練します。休憩を挟んで、三時間を三セットという感じで。(中略)毎日です。一日ボールに触らないと、三日戻ると言いますから」。

硬くて重くて何かと手間がかかり、値段は高く、危険も隣り合わせ。何もそこまでしてモノを作らなくてもいいじゃないかと思えてくる。工芸科のこの執念とも言うべきモノづくりへの想いは、どこから来るのだろう?(pp.148)

日体大「きつくて痛くて何かと手間がかかり、練習用品代や合宿費は高く、危険も隣り合わせ。何もそこまでしてスポーツをしなくてもいいじゃないかと思えてくる。体育科のこの執念とも言うべきスポーツへの想いは、どこから来るのだろう?」。

彼らの日常は全て、本番に向けた練習なのかもしれない。トライアングルを鳴らす時、履いていく靴を選ぶ時、彼らは人知れず精神を研ぎ澄ませている。そんな人を、音楽家というようだ。(pp.168)

日体大「彼らの日常は全て、本番に向けた練習なのかもしれない。ジョギングをする時、履いていく靴を選ぶ時、彼らは人知れず精神を研ぎ澄ませている。そんな人を、アスリートというようだ」。

「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎。ここはそういう大学なんです」(pp.233)

日体大「何年かに一人、五輪メダリストが出ればいい。他の人はそのメダリストの礎。ここはそういう大学なんです」。

以上のとおり、日本において東京藝大だけでしか生じていない現象はほとんど論じられていませんでした。

ところで、同書232ページによれば、東京藝大の「平成二十七年度の進路状況には、卒業生四百八十六名のうち『進路未定・他』が二百二十五名」だったそうです。

気になります。
こうした先行きのおぼつかなさは、たしかに心配です。

ただしこれは、全国の大学院博士課程修了者のうち「死亡・不詳の者」が9.2パーセントだったという驚くべき数字よりは、まあマイルドなものでしょう。(注2)

わが国における教育関係の秘境は東京藝大などではなく、大学院博士課程のほうかもしれません。

注1:『バカのための読書術』、小谷野敦著、ちくま新書、2001年。

注2:『高学歴ワーキングプア:「フリーター生産工場」としての大学院』、水月昭道著、光文社新書、2007年。

金原俊輔