『純文学とは何か』、小谷野敦著、中公新書ラクレ、2017年。

ステレオタイプという言葉があります。

社会科学でよく使われる専門用語です。

アメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマン(1889~1974)が提唱したもので、ところが彼は明確な定義を示さなかったため、同語の使われかたに混乱が生じてしまいました。

わたしはむかしこのステレオタイプを定義する英語論文を書きました。

インターネットの研究者サイト『Google Scholar』をひらいて自分の名前を打ち検索してみると、世界で約50名(わずかです)の人たちがわが渾身の定義を引用してくれており、たいへんありがたく存じます……。

さて、純文学。

これもまた定義がはっきりしない言葉です。

そこで小谷野氏(1962年生まれ)が上掲書を通し当該語の用法の整理を試みられました。

まず前提として、

この世には、純文学としか言えないような作品、つまり『ユリシーズ』やヌーヴォー・ロマン、また多くの芥川賞受賞作があり、その一方で、通俗小説としか言いようがない作品、つまり「ノベルス」などで出るものや、ひところ通俗小説の代表のように言われた赤川次郎や西村京太郎もある(後略)。(pp.21)

純文学がたしかに存在する旨の文章を置かれています。

そののち、いくつかの角度から、氏が考える定義に近づいてゆかれました。

「純文学」は、ぴったりした語がない。一番近いのはフランス語の「ベル・レットル」であろう。「ベル」は美しい、「レットル」は「文」である。(中略)歴史文書なども含み、その中で、美を目ざしたもの、詩、小説、文学的随筆などが「ベル・レットル」である。(pp.22)

男女が恋愛をして困難を乗り越えて結ばれるというロマンスを皮肉化したのが近代の純文学だとひとまずは言える。(pp.41)

近代の「純文学」は、人間の醜い面をシニカルに描くというのが基本線なので、「人情」を熱く語った小説は「通俗」にされるのである。(pp.114)

以上のように。

いっぽう、

久米正雄が、フロベールもトルストイもドストエフスキーも「高級な通俗小説」だと言い、私小説こそが純文学の本道だと説いたのである。(pp.42)

こうした見方も記されています。

しかし『純文学とは何か』では、とうとう核心的な定義に到達できませんでした。

むずかしかったみたいです(わたしは著者のご検討のあとを追うこと自体が楽しかったので、何の不満もありません)。

個人的には、小谷野氏ほどに博識で頭脳明晰なかたが定義できないような場合、「純文学の定義など不可能」とあきらめて構わないのではないか、と考えました。

いっそ、これから純文学という語を廃らせてゆけばよいのです。

芥川賞および直木賞は、純文学・大衆文学の区別をやめ、それぞれ新人作家と中堅作家にあたえる文学賞にしてみてはどうでしょうか。

ところで、

19世紀以降、シェイクスピア的精神を受け継いだのは大陸の人間や日本人であって、英国人自身はシェイクスピアの精神を受け継がなかったのではあるまいか。たとえばシェイクスピアの恋愛思想は現代日本では常識になった。米国やロシヤにも広まったが、英国人は恋愛をバカにしているところがある。(pp.138)

意想外のご指摘でした。

こんな「目からウロコ」の一節がかならずあるので、小谷野氏が書く本を読まずにはいられません。

最後に、わたしの場合、純文学といわれてパッと連想するのはアーネスト・ヘミングウェイ著『老人と海』そして新田次郎著『孤高の人』です。

どちらも人生の淋しさに思いをはせる内容で、読了後、長いあいだしみじみ感がのこりました。

金原俊輔