『「週刊文春」と「週刊新潮」:闘うメディアの全内幕』、花田紀凱、門田隆将共著、PHP新書、2018年。

花田氏(1942年生まれ)は、元『週刊文春』編集長です。

門田氏(1958年生まれ)は、元『週刊新潮』特集班デスク。

おふたりともすでに退職され、いまはそれぞれ個人で文筆業をなさっています。

そういう両者が対談し、古巣の『週刊文春』および『週刊新潮』を評したりアドバイスを述べたりしたものが、上掲書でした。

2誌はライバルで、当初『週刊新潮』のほうが発行部数において何歩もリードしていたらしいですが、しだいに『週刊文春』が追いあげ、現在は『週刊文春』が優位に立っている由です。

対談では、花田氏と門田氏が記者・編集者時代に体験された、政権との闘い、宗教との闘い、裁判という闘い、などがくわしく語られました。

取材力や文章力を武器としながらの闘いです。

とても触発される本でした。

参考となるご発言が随所にあります。

たとえば、

門田  かつて『週刊新潮』は、なぜずっと固定読者を維持できていたのか。それは何かと言えば、「見識」なんです。(中略)通勤途中で買って、一通り読んでもポイ捨てしないで、家に持ち帰って、また読まれていたのは、知的好奇心に応えてくれたり、自分を高めてくれたり、会社で部下や同僚に一席ぶつときの材料になったりする、そういう特集記事やコラムがあったからです。(pp.134)

出版物の内容にかぎらず見識は大切です。

改めてその事実を確認しました。

ほかの例。

花田  ジャーナリズムの役目は、情報の発信と分析・批評だと、ぼくは考えています。情報の発信に関して、新聞は極端に弱くなった。そして、ちゃんとしたデータの裏打ちがなければちゃんとした分析・批評はできないわけだから、分析・批評もすごくいいかげんなものになっている。それは社説に典型的に現れています。ものすごく恣意(しい)的なのが多いですよね。(pp.115)

わたしは「データの裏打ち」を重視する心理学の学派に所属しているので、心から納得がゆくご意見です。

そして本書の圧巻は、第4章「日本を震撼させた週刊誌の衝撃スクープ:その全内幕」でした。

「日本マスコミのスクープ史」そのまま、という感じです。

ロサンゼルス銃撃事件「疑惑の銃弾」記事を掲載したのは『週刊文春』、オウム真理教事件の際に神奈川県警の責任を追及したのは『週刊新潮』。

『週刊新潮』が毎日新聞社の不祥事を暴露したせいで同新聞社が強いダメージを受けた件のお話もありました。

さて、わたしはむろんどちらの雑誌も読んだことがあります(購入したことはなかったものの、たとえば理容店とか定食屋さんとかに置いてあったときなどに読みました)。

わたしにとっての週刊誌は、長いあいだ、

「目前に(無料の)週刊誌があったら、それを開いて、書かれている活字を追う」

「興味がない話題であっても、記事を読んでみるとおもしろかった」

程度のものでしかありませんでした。

「毎週『週刊文春』を買う」「他誌ではなく『週刊新潮』を選ぶ」的な、特別な思いは全然もっていませんでした。

いわゆる「文春砲」にしても、言葉自体は知っていた反面、砲の中身を読んだ経験はなかったのです。

今回のおふたりの対談で、『週刊文春』『週刊新潮』双方が高度な独自性を築きあげており、独自性は業界で他の週刊誌から仰がれるほどのレベルにある、そうした状況を知りました。

これはもう読んでみたくなります。

本書読了後、わたしはさっそく書店で両誌を求めました(おそらく、わが人生において初の週刊誌購入です)。

『週刊文春』『週刊新潮』どちらも2018年1月25日号。

読み比べの結果は「自分に良し悪しはわからなかった」というのが本音ながら、コラム類は『週刊文春』の執筆陣が豪華であり、記事は『週刊新潮』の掘り下げが深かった、ような気がしました。

最後に、もうひとこと。

花田氏・門田氏は、今後週刊誌が生きのこるためには、いっそう「しっかりした考えをもっていて、ちゃんと書ける(pp.279)」のが大事、と見ていらっしゃいます。

わたしは、意見が正反対の論者らによるガチンコ対談を載せる、「書評」だけではなく「マンガ・アニメ」評、新ゲームの紹介、ネット界情報、といった若者向けコーナーを設ける、などの工夫をするのはいかがだろうか、こう考えました。

金原俊輔