『日本の同時代小説』、斎藤美奈子著、岩波新書、2018年。

学問に「文献研究」という研究法があります(あっ、前回とそっくりの書き出しになってしまった)。

研究者が特定領域に関する専門書・論文類ほとんどすべてを吟味し、なんらかの結論にたどりつく、学術的な手段です。

結論を論文にまとめたものを「展望論文」または「レビュー論文」といいます。

さて、本書は、1960年代から2010年代までに出版され話題を呼んだ種々の小説を、幅ひろく展望する構成でした。

書中に登場した作者数は350名を超え、作品のほうはたくさんすぎて数えることができません。

斎藤氏(1956年生まれ)がお読みになった本の多さに圧倒されました。

この分野の一般的な文献研究よりも扱った文献が多数なのではないでしょうか。

そして、わたしがもっと圧倒されたのは、氏の読みの深さです。

例をあげれば、

五木寛之著『青春の門』(1970年)

井上ひさし著『青葉繁れる』(1973年)

を紹介しつつ、

エンタメ系人気作家が70年代に発表したこれらの青春小説は、60年代に一世を風靡した純文学系の青春小説、すなわち『されど われらが日々-』や『赤頭巾ちゃん気をつけて』へのアンチテーゼになっていることです。(pp.73)

こう述べられました。

柴田翔著『されど われらが日々-』(1964年)

および『青葉繁れる』は、既読書です。

けれども、わたしは後者が前者のアンチテーゼとして発表されたという可能性を、まったく思いつきませんでした。

つぎに、私小説の低迷を考察された項では、

絶滅寸前だった私小説は、しかし80年代にもしぶとく生き延びました。ただし、書き手とスタイルを変えて、です。
黒柳徹子が自らの子ども時代をつづった『窓ぎわのトットちゃん』(1981)、芸能界引退をひかえた山口百恵が自らの生い立ちを明かした『蒼(あお)い時』(1981)、元ヤクザを標榜する安部譲二(じょうじ)が府中刑務所で服役した頃の体験をおもしろおかしくつづった『塀の中の懲りない面々』(1986)などです。(中略)
通常、これらは「自伝的エッセイ」に分類されますが、自らの人生を語った書として私小説の流れを汲んでいるのは事実でしょう。(pp.126)

以上の視点を提出していらっしゃいます。

わたしとて往時『窓ぎわのトットちゃん』それに『塀の中の懲りない面々』は読みました。

読みながらも、自分が目を通している読物が私小説であるかもしれないとの推量は、全然おこなえませんでした。

「斎藤氏は読みかたのプロ、読み巧者」と舌を巻いた次第です。

『日本の同時代小説』は、年配の読者でしたら1960年代や1970年代、若い読者の場合は2000年代、2010年代、それぞれ異なる時代の話におもしろさを感じることができるでしょう。

多様な年齢層が味わえる文芸評論です。

最後に、本書は全文を通し「敬体」つまり「です・ます調」を使っていました。

敬体使用は「常体」の「だ・である調」よりもはるかに難しく、そのため書き手にとっては「文章修行」になるほどつらい旨を、たしか日垣隆氏(作家、1958年生まれ)が語っておられたと記憶します。

斎藤氏はそれを承知の上で、あえて困難に挑戦されたのかもしれません。

金原俊輔