最近読んだ本687:『目白雑録:日々のあれこれ』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、金井美恵子 著、中公文庫、2025年

とてもおもしろかったので、一気呵成に3冊読みました。

群馬県高崎市ご出身、現在は東京都豊島区目白にお住まいの作家・金井氏(1947年生まれ)によるエッセイ集です。

しばしば体調不良に陥ってしまうためご自身の老化に向き合わざるを得ない状況下、他界した飼い猫を懐かしがったり、サッカー観戦に興じたり、読書をしたり、映画を鑑賞したり、知識人たちを批判したり、社会の矛盾を指摘したりしてゆく……、そのような内容。

痛烈な皮肉や遠慮のない非難を「長いセンテンス(Ⅰ、P. 46)」でお書きになるのが特徴でした。

センテンスの長さのせいで途中から意味が把握しづらくなる場合もあったのですが、そんなことは小事、わたしとしては構いません。

長文のあちこちに毒が含まれていて、それが香辛料のような働きをし、読む側の読み進みたい欲求を刺激するのです。

それでは、3冊の中から、わたしの印象にのこった箇所をいくつか紹介いたします。

まず、携帯電話にまつわる話題。

ごく個人的な内容と思われる一方的にしか聞こえてこない会話の片方が、道路や電車で交わされているのは異様ではあったのだが、その頃メディアでさかんに言われた携帯電話の異様さとマナーの悪さを批判する立場にいたはずの年齢の男女しか、もう道路や電車や喫茶店でケータイでお喋りしている者などいなくて、若者はメールである。(Ⅰ、P. 231)

言われるまで気づきませんでした。

たしかに今や路上だの喫茶店内だのでスマホを耳に当てて大声で話しているのは年配者ばかりです。

つづいて、小説家・村上龍氏(1952年生まれ)とサッカーの中田英寿氏(1977年生まれ)との対談を、金井氏が「スカパー!のチャンネル(Ⅱ、P. 47)」で視聴なさった際のご感想。

サッカーについて語る日本語が実はまだこの国にはない、と語る言葉の専門家を自称する小説家は、サッカーについては素人なのだから、中田よ、龍のおしゃべりに引退した牧羊犬みたいな眼付きでいちいちうなずいて、日本代表の選手たちのせいで、自分の考える類いの連係プレーが上手くいかないことを甘えて訴えるな、と言いたい。それに、中田の連係プレーはフィオレンティーナでだって、ほとんど上手くいったためしがなかったではないか。(Ⅱ、P. 47)

概して金井氏は同業者に厳しい物言いをなさりがちで、もうひとつ、日本サッカー界にも辛辣なことをおっしゃる傾向があり、その二つが合わさってしまった上記対談、氏の荒い言葉づかいが炸裂した模様です。

映画の話。

そこで思い出すのは、クリント・イーストウッドはなぜサッカーのアフリカ・ネーションズカップではなくラグビー・ワールドカップ南ア大会を映画にしたのだろうか、という疑問なのだが(ロベン島におけるサッカー・リーグのエピソードも含めて、サッカーの方がより映画的なのに、サッカーがなにしろアメリカ的でないことも一つの理由だろうし、なにより彼がドン・シーゲルでもロバート・アルドリッチでもないからである)、(後略)。(Ⅲ、P. 281)

のびのびと疑問をお書きになっています。

サッカーとラグビーのどちらが「より映画的」であるかを云々するのは詮(せん)ないと想像しますが、サッカーだけでなくラグビーとて全然「アメリカ的でないこと」は指摘させておいていただきましょう(ドン・シーゲルやロバート・アルドリッチはよく知らない映画監督なので、クリント・イーストウッド監督と比べたうえでの評価など、わたしには荷が重すぎます)。

最後は、当方に適合した文章。

金井氏は晩年の石井桃子氏(1907~2008)と会う機会をおもちになりました。

石井桃子は自分でそうであったような「本の世界」との出あいを、いったいどのくらいの数の子供たちに与えてくれたのだろうか。その子供たちは、今でも「本の世界」の魅惑を忘れずにいるだろうか。(Ⅲ、P. 359)

子ども時代に、

『ノンちゃん雲に乗る』、石井桃子 著、光文社、1951年

を読んだことが、わたしにとって「『本の世界』との出あい」のひとつでした。

その結果「今でも『本の世界』の魅惑を忘れずにいる」大人(というか、前期高齢者)になっています。

金原俊輔