最近読んだ本712:『特攻基地 知覧』、高木俊朗 著、角川新書、2025年
太平洋戦争末期、わが国の陸海軍は、航空機・魚雷・小型艇などを使って、ついには兵士たちの生身の身体をも用いて、特別攻撃(特攻)を強行。
当時、鹿児島県の知覧町には陸軍の軍用飛行場があり、そこが航空特攻基地となりました。
本書は、高木氏(1908~1998)が知覧関係者のかたがたに聞き取りをおこない、彼ら・彼女たちの思い出や証言を記録した、歴史ノンフィクションです。
○たくさんの特攻兵たちのお世話をなさっていた「奉仕隊(P. 20)」の前田笙子隊員が目にした切実な光景
○「死んで靖国神社にまつられるつもり(P. 63)」だった河崎広光伍長が「生き残った特攻隊員(P. 84)」となってからの、むずかしいお立場
○桂正少尉は、出撃の前夜「兵舎の外に出て、尺八(P. 106)」を吹き、翌日は奉仕隊の女学生たちが作ってくれたリボンや人形や鈴をもって、ご自分の飛行機に搭乗
○母親が働いていた畑のすぐそばまで飛んで行き事故を起こした川崎渉少尉の死は、重い事情があったため、軍が「不慮死(P. 162)」として処理
○倉元利雄少尉は、基地の近くで見送っていた新婚の奥様に「上空で、(中略)翼をふって、さようなら、と、決別の合図(P. 191)」
○訪ねてきた父親とひと晩ご一緒に過ごされたのち、「とうちゃん、国雄の晴姿を見て、満足じゃろがね(P. 321)」とささやき、三式戦闘機「飛燕」に乗り込んだ黒木国雄少尉
……胸に迫る悲話がつづきます。
わたしは、読書中、
『日本の未来へ:司馬遼太郎との対話』、梅棹忠夫 編著、NHK出版、2000年
に収録されていた、司馬遼太郎氏(1923~1996)が戦車兵だったころの、
「国家」というものに対してどうにもならぬ懐疑心がわいてきた。「国家」には果たして人民に「死」を命ずる権利があるのか、あるとすれば誰が与えたのか……。(梅棹 書、P. 237)
上記問いかけを想起しました。
そして、『特攻基地 知覧』によれば、
陸海軍合わせて二千数百の若い生命が特攻に散った。(P. 408)
あまりにつらい数字です。
つらくなるだけではありません。
アメリカ艦船の損害は、損傷191隻、沈没11隻である。沈没したのは駆逐艦、上陸用舟艇などの小型艦艇ばかりであった。(中略)太平洋戦争の全期間に、体当り攻撃で、制式航空母艦、戦艦、巡洋艦は沈んでいない。(P. 387)
特攻がさして大きな戦果を生み出さなかったという事実を知り、わたしは、むなしく、やるせなくなりました。
特攻に関与した「軍の首脳部も立案者も(P. 358)」最悪なまでに愚かな人々だったと思います。
そもそも戦争それ自体が、日本人のみならず全人類がなし得る、最も愚かなおこないであるのでしょうが……。
本書を読みながら、さらに感じたこと。
軍司令官の菅原道大中将は「われわれもつづく(P. 238)」「われわれがだまって見ているというのではない。ただ、諸士に先陣として、さきがけになってもらうのである(P. 314)」、このように訓示して、出撃する特攻隊員たちを激励していました。
けれども、敗戦当日、まだ停戦命令が出ていない状況下で、本人は「死ぬばかりが責任をはたすことにはならない(P. 240)」と宣(のたま)い、けっきょく生き延びたそうです。
菅原中将に対する激しい侮蔑の気もちが起こったと同時に、しかし自分だって(多数の他者を死地に赴かせても)おのれは生を選ぼうとするだろう、自分に彼を責める資格はない、という諦念にも至りました。
金原俊輔