最近読んだ本644:『創作者の体感世界:南方熊楠から米津玄師まで』、横道誠 著、光文社新書、2024年
京都府立大学准教授の横道氏(1979年生まれ)は、文学・当事者研究がご専門です。
京都大学で文学博士の学位を取得されました。
ご自身が「発達障害者(pp.4)」であることから「筆者が内側から体験した世界の表明(pp.337)」として、高名なかたがたを題材に、その人物たちが発達障害者である、もしくは発達障害者と想定される、各種エピソードを紹介し、考察を展開なさっています。
あつかわれたのは、南方熊楠(1867~1941)・宮沢賢治(1896~1933)から最果タヒ(1986年生まれ)・米津玄師(1991年生まれ)までの、全部で「16人の日本の天才たち(pp.33)」。
ノーベル文学賞受賞者・大江健三郎(1935~2023)も含まれていました。
興味が尽きない内容です。
ただし、後半に入ってからの顔ぶれは、既述の最果や米津に加え、蜷川実花(1972年生まれ)、村田沙耶香(1979年生まれ)など、当方がよく知らない人ばかりでした。
わたしが横道氏に感服したのは、与謝野晶子(1878~1942)の章です。
既存の社会通念や権威を意に介さない、少なくともじぶんを支配するものとしては認めない、という精神的態度は自閉スペクトラム症者に広く見られるものだが、晶子にもそれを思わせる特性が強烈に備わっている。そのもっとも有名な事例は、日露戦争で旅順(りょじゅん)攻略に参加した弟を詠った「君死にたまふことなかれ」(1904年)だろう。(pp.83)
言われてみれば説得力があるご推測。
わたしは「君死にたまふことなかれ」を家族愛と反戦の詩としか理解しておらず、背景に発達障害が潜んでいるかもしれないという洞察を有していませんでした。
いっぽう、岡本太郎(1911~1996)の章においては、
筆者は太郎の書きぶりから、ぐわんぐわんと暴発しそうなADHD的な多動性や衝動性がねっとりと周到に文章化されているさまを感じる。おそらく縄文時代の日本人は、現代人よりももっとADHD的で、その世界観を縄文土器に圧縮したのではないか。(pp.135)
と、主観的に過ぎ、証明が困難な問題提起をなさっています。
わたしは縄文時代の日本人に「ADHD的な」人が多かったかどうかよりも、現代の動物(たとえば、類人猿・犬・猫)に発達障害の傾向を示す個体がいるかいないかを調べるほうが、よほど同障害改善に益するはず、と考えます。
それはさておき……。
横道氏は「精神医学や心理学の専門家ではない(pp.21)」ものの、発達障害である「当事者の内側から(pp.19)」対象者たちを掘り下げてゆかれ、わたしのようにカウンセリングを職業としている者が参考にすべき本としてまとめあげられました。
労作です。
ところで、本書のタイトルには「体感世界」の語が使われている反面、文中では「体験世界」なる表現ばかり(たとえば、6ページ、160ページ、197ページ)。
「体感」は「身体に受ける感じ(『広辞苑』、pp.1439)」、「体験」だったら「自分が身をもって経験すること(同、pp.1441)」というふうに、意味が若干変わってしまうと思うのですが?
金原俊輔