最近読んだ本326
『歴史がおわるまえに』、與那覇潤著、AKISHOBO、2019年。
若手歴史学者による、やや専門色が濃い一般書です。
前半は歴史および現代に関する対談、後半は主として書評・人物評でした。
最初に、與那覇氏(1979年生まれ)は、歴史学で長らく共有されている由の問いを援用しつつ「歴史に必然というものはあるのでしょうか(pp.6)」と自問されました。
この自問にたいする自答として、同氏が「うつ病」を患っていた際に、
「私たちが偶然、ここでいっしょになったことにも意味があるんだ」。
2015年の3月、入院した病棟でようやく私のうつ状態が薄れてきたとき、コモンルームでそう演説していた若い患者さんの姿を、いまも思い出します。
─ そうか、偶然でいいんだ。むりに「必然化」しようとすること自体に、じつは必然性がないんだ。(pp.10)
かく悟られたエピソードを紹介なさっています。
他者の言説を参考にするのは素直な行為であり好感をおぼえますが、引用した文章は質問への回答になっていません。
論理が逸脱し混乱もしています。
つぎに、福嶋亮大氏(1981年生まれ)とのあいだでおこなわれた対談では、
與那覇 メカニック・フェティシズムこそ「現代の万葉集」ということですか。
福嶋 その行き着いた先が『艦隊これくしょん』(笑)。ともあれ、前川國男の提示した感性は、実は戦後もあまり変わっていない。
與那覇 『艦これ』は防人(さきもり)歌だった(笑)。確かに、ファースト・ガンダムのジオン公国も「ナチスのパロディ」になるわけですよね。自分の国からは、持ってこれる事例がない。
福嶋 日本人にとって国家をチャーミングなものにしていくのはそれぐらい難しいことだと思うんですよ。常に国家の外部へと美がずれてしまう。
與那覇 だとすると通説に反して、日本人とは実は、非常に国家意識が「弱い」人々の集まりということになりますね。
福嶋 ええ。(後略)(pp83)
わたしは「前川國男」も「艦これ」も「ジオン公国」も知らないため会話を理解できず、おふたりに跳ね返されたかのような感覚をもちました。
理解したのは話の内容に飛躍がある件。
たとえば、仮りに日本人が「常に国家の外部へと美が」ずれる傾向を有しているとして(怪しげな命題です)、それがすなわち「国家意識が『弱い』」という国民性の説明になるでしょうか。
そもそも昨今「日本人は国家意識が強い」的な通説は存在していないのでは?
内閣府(2018年)「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」
日本財団(2019年)「18歳意識調査:国や社会に対する意識(9カ国調査)」
などの結果を参照すれば、むしろ逆で、かなり弱いと見なす識者のほうが多いはずです……。
以上『歴史がおわるまえに』を卒読した感想は、著者は何かを議論なさるとき、もうちょっと口にする専門用語や固有名詞や学者名を倹約すべきではないか、そして、それらを明解かつ合理的に使うべきではないか、ということ。
著者だけでなく、対談相手の皆さまもです。
ここまで不満を述べてきましたが、第3章「現代の原点をさがして:戦後再訪」においては、わたしが結構好きな山本七平(1921~1991)が考察されており、嬉しく思いました。
わたしは山本の思想が好きというよりも、彼の着想の斬新さや堅牢な文章で主張を展開する技術を好んでいます。
與那覇氏は「一貫して保守論壇の雄であった山本(pp.298)」、左記のように描写されました。
また、おなじく高名な論客であった江藤淳(1932~1999)と山本とを対比し、
日本人が一種の辺境人であるとの認識に立ち、その宿命として世界の普遍性(を称するもの)とのあいだに抱えざるを得ない極度の緊張状態から目をそらさず思考したという点では、歩みを一にする。(中略)
ふたりの日本文化論はいまも新しい。(pp.334)
肯定的な評価をなさっています。
金原俊輔