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『事実 vs 本能:目を背けたいファクトにも理由がある』、橘玲著、集英社文庫、2020年。
橘氏(1959年生まれ)は、自然科学および社会科学の各種研究書で得た知識を駆使しつつ現今の社会事象を論評する、というスタイルの執筆活動をおこなわれてきました。
頭が良いかたですし、勉強家でもいらっしゃると思います。
たとえば上掲書では「3つの条件を同時に満たすことができない(pp.43)」状況である「トリレンマ」を軸に、
新型コロナの問題を、「感染抑制」「経済活動再開」「プライバシー保護」のトリレンマとして考えてみましょう。
日本や欧米諸国が直面しているのは、プライバシー(自由な社会)を維持しようとするために、感染抑制と経済活動再開の両立が困難になる事態です。しかし中国のようにプライバシーを(一定程度)放棄して、感染者と濃厚接触者を特定し強制的に隔離すれば、経済活動を犠牲にせずに感染を抑制することが可能になります。
ところが日本では、本来はトリレンマである問題をジレンマとして扱い、「経済活動を委縮させると不況で自殺者が増える」「経済活動再開によって感染者が増え、大切な生命が失われていく」という不毛な対立をえんえんとつづけています。(pp.43)
こう書かれました。
提案の中身はさておき、わたしはコロナ禍をジレンマではなくトリレンマであると喝破された氏のご慧眼に脱帽しました。
自分は気づいていなかったので……。
とはいえ、著者は本書で語られたどの領域でも決して「専門家」ではないため、書中あちこちで示す知識の応用に皮相的な部分がありました。
例をあげます。
「ひきこもり」を考察する章で、橘氏はひきこもりだった上山さんという男性の体験記を参考になさりながら、「ひきこもり当事者においては『恐怖』と『怒り』が強い」旨の論を展開されました。
「恐怖」というのは働いていない、すなわちお金がないことで、生きていけないという生存への不安です。(中略)
「怒り」というのは自責の念であり、そんな状態に自分を追い込んだ家族への憎悪であり、社会から排除された恨みです。(中略)頭のなかは「激怒」に圧倒されているのです。(pp.75)
おそらくそういう傾向はあるでしょう。
しかし、ひきこもっていなくても、働いていても、お金が足りず生きてゆけない恐怖や不安をおぼえている人たちはめずらしくなく、同様に、外での生活を果たすいっぽうで家族・社会に怒ったり激怒したりしている人々も多数いるはずです。
つまり、引用文であつかわれた現象は、ひきこもり諸氏に特有なものなどではありません。
そもそも、もし橘氏が「体験者が書いたことならば信頼性が高いだろう」と受け止めていらっしゃるとしたら、あまりに素朴すぎます。
体験者の記述には客観性が低い場合それに自己弁護に終始する場合があるからです。
となると、ひきこもり当事者たちが恐怖感だの憤怒感だのを抱いているとして、こうした感情は何を原因に生じてくるのか?
1950年代前半、カナダのマギル大学にて心理学者ドナルド・O・ヘッブ(1904~1985)らが実施した「感覚遮断実験」の結果が参考になります。
この実験で、われわれ人間は刺激がとぼしい環境に身を置いていると精神不調をきたすことが報告されました。
そうであるならば、ひきこもり生活はマイルドな感覚遮断を長々つづけているようなものですから、結果的に恐怖・怒りの感情が湧出してきても不思議ではないわけです。
橘氏は、
北村晴朗、大久保幸郎編『刺激のない世界:人間の意識と行動はどう変わるか』、新曜社(1986年)
を読んでおくべきでした。
『事実 vs 本能』内には、わたしの専門外の話題でも、こんな食い込み不足なところが散在しているのではないか、と想像されます。
金原俊輔