最近読んだ本431
『桜色の魂:チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』、長田渚左 著、集英社文庫、2021年。
ベラ・チャスラフスカ(1942~2016)ほどの著名人が、わが国を50年間も愛したなんて、「そんなはずはないだろう、おおげさな副題だな」と苦笑しながら、わたしは上掲書を読みだしました。
そして……、意外です。
副題どおりでした。
彼女は日本へ深い愛情をいだき、お亡くなりになるまで長らく日本人たちとのつながりを大事に保たれたのです。
もはや知らない世代のほうが多数派となっていますので、念のため、おさらいをしておきましょう。
チャスラフスカは、チェコスロバキア(現:チェコ)の女子体操選手。
東京五輪・メキシコ五輪にて、計7個の金メダルを獲得なさいました。
1964年の東京五輪では「映画女優のような金髪と美貌(pp.10)」から「『東京の名花』と呼ばれ、彼女が姿を現す場所に群衆が殺到した(pp.10)」状況でした。
オリンピック開催期間中、早稲田大学生だった宮内孝知氏は、競技場の売店でアルバイトをされており、
体育館に行ったら、チャスラフスカがストレッチをしていた。悪いと思ってチラリと見ただけでしたが、輝くようにきれいだと思いました。周囲にいる他の選手がかすんでいました。大人の女性という感じでした。豊満で、日本中が圧倒されましたね。(pp.113)
そのころ小学生だったわたし自身も「輝くようにきれい」「大人の女性」、まったく同じ感想にいたりました。
ほかに形容するとしたら「優雅さや美しさ(pp.195)」、月並みな2語ぐらいしか頭に浮かんでこないレベルの偶像でした。
日本でだけ人気があったわけではありません。
往年、彼女は「世界中を熱狂させる(pp.191)」アスリートだったのです。
若くて美貌の金メダリスト、こんな諸要素を手中にすれば、人生は思いのまま、当人は恵まれた後半生をすごしそうなものです。
しかし残念ながら、彼女の場合そのようにはならず、母国チェコスロバキアで「あまりにも起伏に富んだ人生(pp.223)」を送ることになってしまいました。
民主化運動を支持する『二千語宣言』に署名したことで迫害を受け、何度も連行され、5年間も仕事を与えられなかった。(中略)
政府に何度も署名撤回を迫られ、脅迫も受けた。撤回すれば名誉のあるコーチの職に就けると言われても、絶対に首を縦に振ることはなかった。(pp.275)
くわえて、ご家庭においては夫オドロジルの暴力がつづき、とうとう1987年に離婚。
直後、いわゆる「ビロード革命」の成功にともない本人の社会的な立場が回復して、1990年、大統領補佐官に就任しました。
ところが1993年、元・夫のオドロジルが地元ディスコで実子マルティン(チャスラフスカの長男)と乱闘し、
オドロジルは床に倒れて、救急車で病院へ運ばれた。頭蓋骨の損傷と脳出血が発見されて、2度の手術をしたが、35日後の9月10日に息を引き取った……。(pp.240)
息子さんが殺人事件の主犯となりました。
さらには、
チャスラフスカは(中略)心身に明らかな異常をきたしていた。(中略)
外出をしなくなり、家でも洗濯や料理をしなくなった。何かが停止したようだった。(pp.248)
倦怠感・うつ症状・震え・幻覚といった症状があらわれ、精神科の医師より「もう生涯治る見込みもない(pp.251)」と診断されました。
自宅でひきこもり、やがて老人ホームへ入所した由です。
こうした日々が「あしかけ14年間にも及ぶことになる(pp.249)」。
まさに流転の人生です。
ちなみに、彼女が約14年後に心の病気を脱したのは、敬愛していた(やはり五輪体操の金メダリスト)遠藤幸雄(1937~2009)の逝去がきっかけだったのではないか?
著者・長田氏による推測です。
ともかくチャスラフスカは復活しました。
彼女は、あらためて世間で活動しだしたのち、たとえば「東日本大震災」復興支援イベントに参加するため訪日したり、東北地方の子どもたちをチェコへ招待したりするなど、日本への親身な関与を再開・継続しました。
2010年における秋の叙勲で、本邦「旭日中綬章」を受章。
2016年8月、すい臓癌が治癒せず、74歳で永眠なさいました。
以上が、オリンピック史上有数の巨星、ベラ・チャスラフスカ選手の一生です。
『桜色の魂』では、このほか、チャスラフスカと遠藤幸雄とのあいだの真心が触れあう友情、東京五輪でファンから贈られた日本刀が本人におよぼした影響、彼女における武士道精神の理解、といった日本人読者の興味をいざなう話題が語られました。
わたしは何をおいても、『二千語宣言』に署名したせいで当時の政府から睨まれ、ご自分やご家族の命すら危ういなか、「まったく意志を曲げなかった(pp.170)」高貴な精神に胸を打たれます。
しみじみ、チャスラフスカは「人間の完成形」にちかい存在だった、と感じました。
完成形にちかいからこそ、現実と不協和が生じ、心の病(やまい)にかかってしまったのではないでしょうか。
素晴らしい評伝でした。
それにしても長田氏の「桜色の魂」なるタイトルは、お見事です。
金原俊輔