最近読んだ本483:『「五足の靴」をゆく:明治の修学旅行』、森まゆみ 著、集英社文庫、2021年

1907年(明治40年)、

 与謝野鉄幹(1873~1935)

は、4人の若者とともに約1か月間、九州地方を旅行しました。

4人とは、

 木下杢太郎(1885~1945)

 北原白秋(1885~1942)

 平野萬里(1885~1947)

 吉井勇(1886~1960)

の面々。

みな新進の作家でした。

与謝野および彼らが「五足の靴」と呼ばれ、旅の途次、全5人が交互に書いた紀行文のタイトルも『五足の靴』です。

吉井が後年執筆した『私の履歴書』によれば、

与謝野先生だけが黒い背広で、あとの四人はみんな金ボタンのついた学生服を着ていたのだから、よそ見にはまるで修学旅行のように見えたかもしれない(pp.71)

の由で、これが本書副題「明治の修学旅行」につながりました。

一行は、福岡県福岡市、柳川市、佐賀県佐賀市、唐津市、長崎県長崎市、佐世保市、平戸市、島原市、熊本県天草市、阿蘇市……と、各地に足を運んでいます。

『「五足の靴」をゆく』は、5人が九州で何を見聞したか、見聞をどのように記したか、参加者たちの人生はその後どうなったか、を綴った内容でした。

たくさんの資料や証言に基づいています。

わたしが居住する長崎市を訪れた際の、木下・北原の感想を見てみましょう。

「わが羅曼底(ろまんちつく)の徒は、繁劇たる今の長崎の薄暮のうちに紅の空想国を尋(と)めていたのである。(後略)」(中略)
南蛮についてあれほど調べた杢太郎の興奮が伝わる。彼はもしかしたら四人と離れ、一人で長崎を歩いたのではないか。(中略)
のちに「長崎、長崎、あの慕(なつ)かしい土地を何故(なぜ)一日で離れたろう」と白秋は言う。(pp.150)

良い印象だった模様です。

ところで、わたしはずっと淡い疑問をもっています。

それは、長崎市だの佐世保市だのに「五足の靴 文学碑」が設置されており、おそらく他の街にも多々あるはずで、しかし全員の業績から鑑みて、みなさん名をのこされたことは事実な反面、日本文学史トップレベルの存在だったとまではいえず、どうしてこう随所に碑を立てる必要があるのか、というものです。

疑問は本書を読了しても氷解しませんでした。

ただ、5人があちこちで歓待された状況は、わかりました。

田舎の九州ですので、地元の知識人・文学青年は都会の若手作家が連れ立って来訪してきたのが嬉しかった、と思われます。

もてなされた側も愉快だったでしょう。

さて、ここで『「五足の靴」をゆく』にすこしだけ関係する余談をひとつ。

吉井勇は、晩年の1959年(昭和34年)3月、長崎市を再訪し、市内の稲佐山に登って、

おほらかに 稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろばろ 山もはろばろ

という歌を詠みました。

吉井がたくさんの報道陣やファンに囲まれ自作を披露していたそのとき、突然、ふたりの男児が彼の近くで彼を無視しながら転げまわって遊び、名場面を破壊してしまったそうです。

失敬なふたりは、わたし(4歳)と弟(3歳)。

叔母に率いられ稲佐山でピクニックを楽しんでいた折、吉井の短歌発表シーンに遭遇したのです。

叔母は女優を志し、映画会社の写真選考で採用決定した、美貌のもちぬしでした(祖父母の猛反対で映画界入りは断念)。

吉井勇が女の話ばかりするので閉口したようだ。(pp.93)

われわれの乱入にムッとしたかもしれませんが、上述のエピソードを有する吉井ですから、当時20歳代の叔母が恐縮している姿を見て、子どもへの叱責は控えたのでしょう。

無事、バカ兄弟は遊びつづけました……。

吉井の『ゴンドラの唄』は好きです。

金原俊輔