最近読んだ本492:『津田梅子:明治の高学歴女子の生き方』、橘木俊詔 著、平凡社新書、2022年
津田梅子(1864~1929)は、1871年(明治4年)、6歳だったときに「岩倉使節団」のメンバーとしてアメリカ合衆国へわたりました。「最近読んだ本166」
11年後に帰国、それから再渡米。
ペンシルベニア州のブリンマー大学にて3年間学び、1900年(明治33年)、東京・麹町で女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校しました。
上掲書では、この梅子だけでなく、おなじ時期にアメリカ留学をしたふたりの邦人女性、山川捨松(1860~1919)と永井繁子(1862~1928)の話題をも交えつつ、物語が進められました。
そこで、まず、3人の人生の展開を整理したのち、わたしが感じたことを2点述べます。
さて、幼い彼女たちはアメリカで苦労しましたが、次第に適応してゆきました。
それぞれ同国での生活を楽しんだ模様です。
勉学を終えた以降の日本における後半生が異なっており、
梅子は生涯独身を貫いてキャリアとしての職業に一生を捧げた。捨松は結婚して子どもをつくり、専業主婦としての一生であった。繁子は結婚し子どもをつくったのみならず、キャリアを全うした人生であった。(pp.196)
もうすこしくわしく見れば、梅子は、
自立心が強くて、妥協を好まない性格であった。(中略)
結婚して妻になり母となる人生が当時の女性に期待されたが、梅子はそれを無視して独身を貫き、かつ英語教師としてのキャリアを全うした。(pp.197)
捨松はどうだったかというと、
フランスとアメリカ帰りの大山厳・捨松夫妻は、まさに宴を飾るにふさわしいホスト夫妻だった。特に、美貌で洋装の着こなしがうまく、外国語が堪能でダンスもうまく踊る捨松は、「鹿鳴館の華」と呼ばれるのにふさわしいホステス振りであった。(pp.163)
繁子の場合、
1892(明治25)年に東京音楽学校の教授を辞職して、女高師でのみ教えていた。その後、1902(明治35)年に41歳で女高師の教授も辞して、専業主婦となったのである。(pp.183)
梅子・捨松・繁子は「死亡するまでその親しい関係が続いたし、お互いに助け合いながらの人生であった(pp.196)」由でした。
アメリカ体験を共有する者同士、深い信頼で結ばれていたのでしょう。
以下、感想になります。
はじめは苦情です。
著者(1943年生まれ)が振り返っていらっしゃるとおり、『津田梅子』には「明治時代の3人の女性の経験を知ることによって、現代でも学ぶところがある(pp.9)」案件が多々含まれていました。
人種差別、帰国子女の困惑、独身女性にたいする周囲の口出し、女性が直面するガラスの天井、女性における職業生活と家庭生活への比重の置きかた、など、いまの社会に直結する諸問題です。
とはいえ、204ページに始まり229ページまでつづいた教育論・結婚論は、脱線であり、蛇足でした。
わたしは、これだけのページ数を費やすのだったら、もっと津田梅子の生涯を通観してほしかった、と惜しみました。
なにしろ彼女が主人公の伝記なのです……。
つぎに、わたしが理解できていなかった事項に関し、著者が快刀乱麻を断つ見解を提出してくださいました。
わたしの理解がおよんでいなかった事項とは、どうしてあの時代、親が娘を外国に留学させたりしたのか、というものです。
送りだすほうも、送りだされるほうも、つらかったはず……。
このことを著者は、梅子らが「賊軍とされた旧幕府側の娘(pp.46)」だったため、こうお考えでした。
賊軍とされた藩士の娘であれば、頭(こうべ)を垂れながらの人生を送るか、あるいは嫁入り先での生活で苦労するかもしれない、との危惧があるので、新天地を求めてアメリカに行くのが良い案だ、と周りの親族が思った可能性がある。(pp.46)
納得です。
薩長を頂点とした藩閥政治が横行していた明治期、子どもの発展のために旧幕府側の親たちはさまざまな暗中模索をしたのでしょう。
わが子を海外へ向かわせるというのは、そんな模索のひとつだったわけです。
必死な親心を思い、感じ入りました。
金原俊輔