最近読んだ本508:『作家との遭遇』、沢木耕太郎 著、新潮文庫、2022年
ノンフィクション・ライターの沢木氏(1947年生まれ)による、一種の文芸批評です。
本書執筆時に活躍中だった作家、すでに物故していた作家、どちらをも俎上に載せていらっしゃるものの、存命者のほうが多く、すると、評されたご当人が文章に目をとおす成り行きになりますので、著述は難しい作業だったはず。
それが理由なのか、『作家との遭遇』全編に緊張が漲(みなぎ)っています。
わたしみたいな読者にしてみれば、おかげさまで濃密な読書を体験できました。
恐らく、塩野七生には、このような言説に幽閉され、瘦せ細ってしまったチェーザレに、どうにかして手を差し伸べたいという願望があったのだ。なぜチェーザレだったのか。その問いに対するひとつの答えは、歴史の闇の奥に追い立てられ、不当な扱いを受けているチェーザレを、自らの手で救出するのだという物書きとしての野心のうちに求められるかもしれない。(pp.69)
塩野氏(1937年生まれ)が「違うわよ」と否定すれば粉砕されてしまう考察ですから、沢木氏は真剣勝負のような気迫でお書きになったことでしょう。
写真家の土門拳(1909~1990)を語るなかでは、
ある未成熟な表現のジャンルが成熟していく過程には、必ずそのジャンルの課題を一身に体現したような作家が登場するものだ。(pp.199)
こんな、ぼんやりしていた事実を明白にする、鋭いコメントもなさっています。
古くは、浮世草子の井原西鶴、俳句の松尾芭蕉、近代および現代では、社会派ミステリーの松本清張、マンガの手塚治虫、ショートショートの星新一、沢木氏が身を置かれるノンフィクション分野だと大宅壮一、わたしですら該当者たちを容易に想起でき、頷かされました。
吉村昭(1927~2006)の章では、
吉村昭は完璧なノンフィクションを書くことで、かつてないほど小説らしい小説を書くことに成功した。(pp.137)
意味を把握しづらいかもしれませんが、引用した結論にいたるまで沢木氏は丁寧な解説をなさり、納得のまとめを提示されました。
なにかを論評する力量をおもちの文筆家です。
わたしはこれまで、本書以外では、氏が若かったころ出版した、
沢木耕太郎 著『若き実力者たち:現代を疾走する12人』、文藝春秋(1973年)
沢木耕太郎 著『敗れざる者たち』、文藝春秋(1976年)
沢木耕太郎 著『テロルの決算』、文藝春秋(1978年)
3冊しか読んでおらず、わずか3冊というのは「損をしている」と自戒しました。
金原俊輔