最近読んだ本549:『「アマゾンおケイ」の肖像』、小川和久 著、集英社インターナショナル、2022年
室町時代に編纂された『閑吟集』(1518年)の中に、
何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ
という小歌があります。
これは人生哲学を詠(よ)んだ歌だ、いや、性愛賛美だ、と文言の解釈は一定でないのですが、わたしの場合、前者に近い感じで、
ちまちま生きてどうする。人生は儚(はかな)い夢みたいなものじゃないか。だから狂ったように突き進んでいこうぜ。
俚諺(りげん)のごとく受け止めています。
『「アマゾンおケイ」の肖像』を読んでいた折、わたしはこの「何せうぞ~」を想起せずにいられませんでした。
アマゾンおケイ、本名・小川フサノ(1903~2000)、熊本県の出身です。
彼女は、子どもだったころ両親と別れ叔父夫婦に連れられてブラジルへ移住、農作業に励み、経済的な安定を得、邦字新聞社のタイピストやダンスホールのダンサーを経たのち、帰国、横浜でひらいたカフェを繁盛させ、今度は中国の上海市に向かう、同市でもダンサーとして活躍、アメリカのエリート外交官と知り合い、交際したものの、離別、オーストリアの外交官の勧めで宝くじを買い、大当たりして(現在でいえば)約11億円を手にする、日本へ戻り、巨額の自己資金を背景に不動産業へ進出、成功、豪邸に住み別荘も購入、妻子ある男性とつきあい、男児を出産、経営の迷走と第二次世界大戦敗戦による混乱で財産を失い、生活保護を受給、再起はかなわず、しかし、ひとり息子を守りぬいたすえ、97歳の天寿を全う……。
波乱万丈の人生をおくりました。
上記まとめ以外にも、ユダヤ人兄弟亡命の支援とか、スパイがらみの事件とか、政財界の大物たちとの交流とか、彼女の生涯は興味深いできごとの目白押しでした。
ひたすら猛進したフサノ。
わたしはこんな「破天荒(pp.12)」かつ「自立心溢れる(pp.12)」女性を敬愛します。
わが長崎には、江戸時代から明治時代にかけて大浦慶(1828~1884)という実業家がおり、この人物とフサノは、同性、「慶」「おケイ」で名前が同じ、がむしゃらに生き、裕福だったのに晩年はほぼ無一文になってしまったあたりが、似ています。
本書に接し、冒頭の『閑吟集』だけでなく、大浦慶のことも連想しました。
ところで、フサノはブラジルでダンサーをしていたとき、
指名をいっぱいとるには覚えやすい名前がよいといわれ(中略)ケイと名乗った。(pp.81)
老後もブラジルをなつかしみ、
興が乗ると「私はブラジル育ちのアマゾンおケイだから」と嬉しそうにしていた。(pp.81)
これが『「アマゾンおケイ」~』なる題名の由来です。
本作品はフサノのご子息・小川和久氏(1945年生まれ)がお書きになった伝記。
親子の関係がありながら、私情におぼれず「母を突き放して(pp.12)」語る、淡々とした筆致でした。
さて、余談になります。
2022年11月以降、カタールで開催されているサッカーのワールドカップ、日本代表選手や日本人サポーターらがロッカールームだの観客席だのを清掃して帰る行為が国際的評判となっています。
小川フサノがブラジルへ渡った1917年(大正6年)、移民たちは同国の「ファゼンダ(コーヒー農園)(pp.10)」に行く前、しばらく収容所で寝起きさせられたのですが、
収容所生活も終わりを告げ、それぞれのファゼンダに向けて出発する日が来た。フサノたちは誰が言うともなく部屋の中を綺麗に掃除した。数ヵ月後、サンパウロの新聞に日本移民を誉める記事が載ったと教えられた。日本移民が去ったあと、収容所内には煙草の吸い殻や唾を吐いた跡もなかったと感嘆する言葉が連ねられていた。(pp.39)
日本人がすべて「立つ鳥跡を濁さず」の美徳を有しているわけではないにせよ、今もむかしも、ちゃんと有する人々はいる(いた)模様です。
金原俊輔