最近読んだ本607:『放蕩の果て:自叙伝的批評集』、福田和也 著、草思社、2023年

批評家の福田氏(1960年生まれ)による、自分史を織り交ぜた文芸評論集です。

作品を氏は「自叙伝的批評」とお呼びになりましたが、私小説的批評とも言えますし、身辺雑記風批評、本人ドキュメンタリー批評、こうした表現も可能と思われ、いずれにせよ新機軸。

わたしは味読しました。

心配な件として、ある日、福田氏はご友人(澤口知之氏)と中華料理店に入るも食が進まず、

食欲が減退し、体がやせ衰え、活力が失われているという現実に、私はどう抗えばいいのだろう。抗う術はあるのだろうか。
私の心を見透かすように、澤口が冷ややかな視線をこちらに向けている。(pp.68)

前にも当コラムで書いたことながら、かなりご不調でいらっしゃるみたいです。「最近読んだ本248」「最近読んだ本581」

ところが何と、ほどなく上記の澤口氏が亡くなられるという、人生の重たい皮肉が生じてしまいました。

本書第一部内の「Let It Bleed:料理人・澤口知之」章は故人への追悼章で、福田氏の真心が溢れています。

以下、もうひとつの心配を述べさせてください。

これまでの福田氏の文章には「云ったそうな(pp.404)」という「そうな」表現はほぼ使用されなかったと思いますが、本書では複数回「~そうな」が登場しました。

それの何が心配かといえば、福田氏と親しかった石原慎太郎氏(1932~2022)の最晩年の作品、

石原慎太郎 著『老いてこそ生き甲斐』、幻冬舎(2020年) 「最近読んだ本339」

においても「~そうな」が頻出していたからです。

たんなる偶然の一致かもしれないものの、もしや、老いたり病んだりすると、何かをきちんと調べて断言する書きかたが面倒になってきてしまうのでは?

あるいは老化や病気のせいで「『そうな』を使いすぎているな。じゃあ、この文では違う言葉づかいにしよう」といった推敲機能が働かなくなっている?

気がかりです。

石原氏の話題は書中幾度か出てきて、「最後の冒険:石原慎太郎」章も設けられていました。

『放蕩の果て』で最も力がこもっていたのは、福田氏が「先生(pp.12)」と仰ぐ江藤淳氏(1932~1999)を語った「妖刀の行方:江藤淳」章でしょう。

私は江藤さんのように批評を論理と骨格によって作ることができず、感覚と気分によって構成することしかできなかった。(中略)
確かに、私は江藤さんから妖刀を譲り受けた。いい気になって、振り回していた時期もあった。しかし、この10年ほど妖刀の姿を見ていない。というより、妖刀の存在すら忘れていた。(pp.61)

師への思慕と謙遜・諦観とが錯綜した名文です。

金原俊輔