最近読んだ本615:『日本史の旅人:野呂邦暢史論集』、野呂邦暢 著、中公文庫、2023年
野呂邦暢氏(1937~1980)は長崎県出身の小説家で、芥川賞を受賞し、将来を嘱望されたかたでしたが、惜しくも若くして亡くなられました。
上掲書は、その野呂氏による歴史エッセイ。
むかし発行された単行本が文庫として再発行されたものです。
一読し、氏が歴史に強い関心を抱き、ご造詣も深かったことを、知りました。
語られている話題は、邪馬台国・古墳・元寇・赤穂浪士・日露戦争など。
どれもがおもしろく、わたしは新しい知識をあまた入手できました。
たとえば、四十七士の、
討入りに際して山鹿流の陣太鼓を叩いたというのも嘘である。(中略)
服装は統一されていなかった。(pp.113)
ドラマの『忠臣蔵』で見られるような、全員が白黒ツートンカラーの火事装束で身をかため、吉良邸門前で大石内蔵助が堂々陣太鼓を打ち鳴らす、そんな様式美がただようシーンは史実でなかったわけです。
野呂氏は諫早育ちだった関係で諫早市の歴史にもくわしかった模様。
その城址は、諫早と大村の境界からやや諫早寄りの丘にある。国道の左右には小高い丘が隆起して、大村へ近づくにつれしだいに勾配は大きくなる。諫早と大村はこれらの丘陵が一つに合して多良岳の尾根となった台地によって仕切られる。(pp.272)
ここはわたしがかつて勤務していた鎮西学院大学のすぐ近く、上の文章を読むや周辺の風景が目に浮かんできます。
そんな懐かしい場所に往年「伊佐早城(pp.272)」があったという事実も今回初めて知りました。
以上が本書を読了したわたしの簡単な感想です。
これより、本書からは離れますが、本書の話題となった歴史的できごとのうち、当方が漠然と疑問視してきた事項をふたつ記します。
ひとつめは、邪馬台国がらみです。
邪馬台国につながると想像されている大和国。
わたしは小学生だったころ「大和」という文字をなぜ「やまと」と発音するのか理解できませんでした。
その件を『日本史の旅人』のページを繰りながら思いだし、さっそく手元にある漢和辞典、
吉田賢抗 編『新釈漢和』、明治書院(1969年)
を開いたものの、「大」に「やま」の発音は含まれておらず、「和」も「と」とは読まないようです。
新村出 編『広辞苑』、岩波書店(1983年)
には、大和の語源が記されていました。
もともとは奈良県天理市に「倭(やまと)」なる地域があり、やがて「倭」の字が「和」に変えられ、それに「大」の字を冠して、大和となった由です。
個人的には快刀乱麻を断つ説明と感じられません。
そこで愚考したのは、邪馬台国は福岡県山門(やまと)郡にあった、何らかの事情で国を奈良方面に移す運びとなったが、その折に山門よりも大きく山門よりも平和という意味で「大和」の漢字をつかい、しかし読みは「やまと」に据え置いた……のではないか?
おっと、野呂氏は邪馬台国の場所を比定する諸仮説を俯瞰したのち、
とっぴな仮説(邪馬台国は著者がただ今すんでいるその地であることが多い)、飛躍の上に飛躍した論理(仮説に適合しない証拠は理由もなく見すてられる)、(後略)。(pp.26)
こう慨嘆なさっており、まさしく九州暮らしのわたしがそれをやってしまいました。
つぎに、元寇です。
わたしには蒙古軍が2度とも博多湾近辺に上陸したというのが謎。
九州地方は長らく外敵の脅威にさらされていた関係で、防人(さきもり)の時代までさかのぼって防衛意識が堅固なところです。
そして武士たちも精強でした。
最初の文永の役(1274年)にて九州武士団打破が容易でないと学んだら、次回1281年は他の土地を選んで襲うほうが良かったのでは?
蒙古軍にとって最短距離でたどりつける都市が博多だったとか、博多は鎌倉幕府から離れていたため侵攻しやすいと判断したとか、理由の見当はつきます。
それでも、すこし遠回りになろうと、ちょっとばかり中央政府に近くなろうと、行く先を変更しておけば、九州で「日向と大隅の兵(pp.71)」「豊前隊(pp.75)」「豊後勢(pp.75)」「薩摩勢(pp.75)」「肥後勢(pp.79)」「松浦党(pp.80)」「肥前勢(pp.81)」……こんな日本のドリームチームみたいな連中を相手にしなくて済んだでしょうに。
金原俊輔