最近読んだ本625:『ケマル・アタテュルク:オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父』、小笠原弘幸 著、中公新書、2023年

高校時代、世界史の授業でケマル・アタテュルク(1881頃~1938)について学びました(当時の発音は「アタテュルク」ではなく「アタチュルク」だったような……)。

しかし、彼がトルコの軍人かつ政治家であったという事実以外、なにを成し遂げた人なのか、教わった情報は忘却のかなたへと去って行ってしまいました。

「トルコ共和国の建国者にして初代大統領(pp.i)」「ガリポリの戦いにおける功労者(pp.85)」「売り出し中の若手将校(pp.114)」「まごうことなき英雄(pp.284)」だった由です。

日本でいえば、たぶん西郷隆盛と大久保利通を合わせたような存在なのでしょう。

わたしが鎮西学院大学に勤務していたとき、トルコ出身の学生に「むかし学校でケマル・アタチュルクのことを勉強した」と伝えたら、「母国の偉人が日本でも知られている」的に目を輝かして喜んでくれた反応をおぼえています。

さて、本書。

ケマルの長くはない一生をトルコ内外の動向を交えつつ語った評伝でした。

本人の不節制な生活や破綻した夫婦関係なども紹介されています。

トルコ大統領としての彼において特徴的だったのは「脱イスラム化(pp.218)」および「独裁への志向(pp.267)」でした。

ケマルの断固とした政策の背景には、トルコ国民は迷信や宗教的反動から脱却し、科学を受け入れ「文明化」せねばならない。さもなくば国際社会においてトルコは生き残れないという厳しい現状認識があった。(pp.219)

適切な認識と考えられます。

とはいえ、そんな状況の打開をめざし、さらに他の要素も加わった結果、ケマルには遠慮がなくなりだしました。

彼がイエスマンで周囲を固めたことにたいする批判も少なくない。アタテュルクと彼の築いた体制が、権威主義的な性格をもっていたのを、否定することは難しいだろう。(pp.268)

こうなったのだったら、まあ、どこにでもいるエゴの塊の支配者、と見なせるかもしれません。

もっと爽やかなリーダーの伝記を読みたかったので、そういう点では失望……。

ただし、『ケマル・アタテュルク』自体は、調べがゆき届いた労作でした。

以下、著者への感謝と読書中に連想した事項をひとつずつ述べます。

最初に、感謝。

本書には多数の男女が登場するのですが、そのため「ズベイデ」「ムーサ・キャーズム・カラベキル」「アユジュ・メフメト・アリフ」「マフムト・シェヴケト」「ヴァフデッティン」「サカッル・ヌーレッティン」といった、われわれ日本人には記憶しづらいトルコの人名の目白押しとなりました。

小笠原氏(1974年生まれ)は、読む側の苦労を見越してでしょう、出てくる人たちの写真を極力載せてくださっています。

ページを繰るにあたり助けとなる、読者本位のご配慮でした。

つづいて、連想した事項。

主人公がもともと軍人だったことから、書内で、トルコが参戦したいくつかの戦争についての記述がありました。

おもに「領土(pp.5)」に起因する戦いです。

それらを読んでいて、わたしは、土地の領有権という問題はけっきょく各国の自己主張を基盤にしている、なので、証拠を決め手とする冷静な解決など不可能なのではないか、との認識に至りました。

現在、わが国も北方領土や尖閣諸島や竹島などの領土問題を抱えており、どれも平和裏に解決してほしいものの、日本人は「相手国が不当!」と腹を立てるいっぽう、相手国のほうは「いや、こっちこそ正当!」となり、これでは解決につながったりしないはず。

かといって(仮りに)武力で領土を奪還しても、それはたんに力づくで自分の国土化したに過ぎないわけで、相互の納得のうえ未来永劫にわたってトラブルを収めたことにはなりません。

だから解決は不可能と思ったのです。

米国から日本への奄美群島返還(1953年)や沖縄返還(1972年)は、世界史的に眺めても例外中の例外と言えるできごとだったのではないでしょうか。

金原俊輔