『本が好き、悪口言うのはもっと好き』、高島俊男著、ちくま文庫、2018年。

もともとは1995年に単行本として刊行された作品です。

いったん文春文庫に収められ、そして2018年、ちくま文庫のほうから再出版の運びとなりました。

わたしは長く「読んでみたい」と思っており、しかしずっと機会をつくれず、今回ようやくページを開くことができました。

書評および身辺雑記が主となっている内容です。

話題は、国語辞典、漢字の書きかた、中国、新聞、動物行動学、野球の長嶋選手、逮捕歴、田舎暮らし、など、盛りだくさんでした。

難解な言葉づかいがなく、頭に入りやすい文章でした。

この『本が好き~』を読んでいると、著者(1937年生まれ)が万巻の書に目を通されていること、強記の人でいらっしゃることが、ぐいぐい伝わってきます。

卓絶した知識人です。

ご発言をひとつ引用しましょう。

著者は日本文化を考察する際に、

中国文化と日本文化は誕生の時期がちがう。文化も人間と同じことで、早く生まれたほうが早く大きくなるのは当然だ。(中略)
もし漢語と漢字が入って来なかったら、日本語は健全に成熟して、やがて日本語の生理に合った表記体系を生み出していただろう。ところが日本語がまだ幼児期だったところへ漢語漢字が入って来てそれを借り用いるようになったものだから、日本語は成長がとまり、少し高級なことは外来語である漢語によらなければ何も言えなくなってしまった。(pp.16)

こう書いておられます。

わたしにとって「目からウロコ」のご指摘でした……。

話を変えますが、書中、故事来歴を紹介しつつ、じつは高島氏がご自分のことを語られているのではないか、と感じられる箇所が複数ありました。

まず、詩人の李白(701~762)、杜甫(712~770)、を比較した第5章で、

中国という国は、二千何百年の昔から二十世紀にいたるまで、二種類の人間からできている。
一つは頭を使う人間で、この連中が学問をし詩を作り役人になり政治を指導する。
もう一つは体を使って働く人間で、その大部分は農民、そのほかに運輸人夫とか職人とか商売人とかがあるが、これは学問をせず詩を作らず役人にならず政治にたずさわらない。(中略)
杜甫が行くようなへんぴな所では、県の役所といっても役人は二人か三人くらいしかいなくて(その下働きをする現地やといの者は相応にいるが)、あとは周囲数十里、人間と猿との中間くらいな土民しかいないのである(後略)。(pp.213)

知識人の寂寥感がにじみ出ているような気がします。

おそらく氏は(自ら恃むところすこぶる厚く)孤独なかたであるのではないでしょうか。

もうひとつ、明治時代の学者・狩野亨吉(1865~1942)を論評した章。

狩野は、東北帝国大学総長就任の誘いを断わり、東京の長屋で書画の鑑定をしながら暮らした人物です。

高島氏の総括によれば「まあ奇人である(pp.310)」由でした。

さて狩野は、

態度も話しぶりもまことにおだやかで、内容は古今東西の各部門の学問にわたって尽きることがなく、単なる博識ではなくて深さを感じたということだ。
しばしば訪れて話を聞いた森銑三は、「深さも広さも測り知るべからざるものがあつた」と驚嘆の念を記した(後略)。(pp.326)

高島氏の上記の文章にも、自分を投影しているかのような雰囲気が、そこはかとなく漂っています。

『本が好き~』では、けっこう狩野亨吉にちかいご自身のエピソード類も披瀝され、わたしは「著者、あんがい奇人なのでは?」と想像しました。

氏ほどまでに膨大・深遠な教養を有してしまうと、庶民相手の会話が成立しなくなり、世俗的な栄達にも食指が動かなくなる、これは当然のなりゆきかもしれません。

金原俊輔