最近読んだ本718:『「科学的に正しい」の罠』、千葉聡 著、SB新書、2025年
東北大学教授でいらっしゃる千葉氏(1960年生まれ)が執筆なさった本です。
全編を通し科学哲学みたいな論考が記されていました。
まず、いまのインドにおいて疑似科学が教育カリキュラムに取り入れられているという話から始まります。
インドの現状はわたしにとって初耳だったので、驚きました。
つづいて、むかしソビエト連邦のトロフィム・ルイセンコ(1898~1976)が科学に基づかない農法を推進したせいで甚大な被害を生じさせてしまった件が詳述されます。
非科学・疑似科学を糾弾する書物ではたいていルイセンコの悪行が語られるため、彼のことは知っていました。
そして上掲書は、メイン・テーマ「科学的な正しさ(P. 25)」をめぐる考察に入ってゆきます。
この考察が専門的かつ深遠かつ広範囲。
残念ですけれども、わたしには内容を批評する力がありません。
ほんのすこし何かを言えるのは、自分が専攻した心理学関係だけ、心理学の書物を通して学んだことだけ、です。
たとえば、
2010年代に入り、決定的な事態が発生した。
心理学、医・薬学、進化・生態学などで、著名な実験結果が再現できないという問題が頻発するようになったのだ。(P. 183)
科学では、同じ条件あるいは同じ手続きで実験をおこなったとき、前回と同じ結果に至るか否か、前回と同じ現象が観察されるか否か、の度合いを「再現性」と呼びます。
引用文を待つまでもなく、心理学の研究の再現率の低さには長らく懸念が示されてきました。
千葉氏がいかなる心理学研究を念頭に置かれ上記文章をお書きになったのかは不明ですが、当方が知っているだけでも「スタンフォード監獄実験」だの「マシュマロ・テスト」だのには「再現性に問題があるのでは?」という疑義が寄せられています。
ただし、
『論争のなかの心理学:どこまで科学たりうるか』、アンディ・ベル 著、新曜社、2006年
そもそも、人間は心理学的状態を備えているのである。これらの状態は、思考、感動、感情などを含む全体的な領域を形成している。そしてこれらのすべてが、きわめて個人的で主観的な現象である。したがってそれらは、この世界の他の現象のようには、たやすくは科学的に観察することはできない。(ベル 書、P. 144)
心理学は人間の心理や行動という極端に複雑なものを主な研究対象としているため、なかなか「物理学、化学、そして生物学が成し遂げた非常な技術的成功(ベル 書、P. 144)」にはたどりつけないのです……。
わたしが何かを言える、ふたつ目の例。
『「科学的に正しい」の罠』は、科学が内包する偏りとして、
どんな科学研究でも、何をテーマとして選ぶか、どのような方法を使うか、結果をどう事実として評価するかは、科学者の価値観や社会的要請に依存する。(P.177)
こう指摘しました。
科学といえども完全に客観的というわけではない旨の指摘です。
それについて、
『心理学者のための 科学入門』、中丸茂 著、北大路書房、1999年
の中で、
研究者は、自分自身の主観に由来するすべてのもの、自己の感情や願望や個人的態度などを排除しなければならないということである。ここで問題としている主観の排除は、「どのような現象の解明を研究テーマとするのか?」や「何が知りたいのか?」、さらには、「どのような測定装置を使うのか?」といったことを問題としているのではない。科学もひとつの思想であり、そのような意味では主観である。科学者は、科学的主観ということを共有しているのである。研究をおこなう際にできるだけ排除すべきものは、個人的主観であって、科学者としての主観、科学的主観ではないのである。(中丸 書、P. 35)
と、述べられていたことを紹介します。
個人的主観は排除すべきものながら、科学的主観は避けようがなく、避ける必要もない……、千葉氏のご指摘にある程度まで対応しているのではないでしょうか?
以上、わたしが書ける範囲の事項について書きました。
本書の結論は、
科学的な正しさは、事実を説明する際の完全な「客観性」や「価値中立性」によって保証されるという考えから、研究プロセスの透明性、多元的な視点による合意形成、そして社会的に支持される価値判断を適切に組み込むことによって担保されるべきである、という考え方へと移行している。(P. 182)
です。
わたしには「透明性」「合意形成」「社会的に支持される価値判断を適切に組み込むこと」のどれにも危うさが潜んでいると思われ、けっきょく最近の「考え方」も万全ではないのではないかと感じました。
金原俊輔

