最近読んだ本329

『僕が批評家になったわけ』、加藤典洋著、岩波現代文庫、2020年。

高名な評論家だった加藤氏(1948~2019)。

けれども、わたしはこれまで氏の著作を読んだことがありませんでした。

昔年、

映画『地獄の黙示録』、フランシス・フォード・コッポラ監督(1979年)

の解説をどこかで目にした記憶がある程度。

ただ、わたし自身が『地獄の黙示録』を観ていないため、その解説は(おそらく鋭い解説だったのでしょうが)まるで頭に入ってこなかった……。

そして今回の『僕が批評家に~』。

これは個人的に関心がないわけではない領域の書であり、自分とてすこしは考えてみたい「批評とは何か(pp.1)」がテーマで、当該テーマがじっくり考察された読み甲斐がある一冊でした。

良い意味でねっとり気味の記述がつづき、やがて何かが明瞭になりだす、そういう展開に接し快感を味わえます。

電子エクリチュールなどと硬い用語をあてられることもあるいわゆるインターネットとかパソコン通信のことばは、書き言葉といえば書き言葉だが、ふつうの書き言葉とはずいぶんとかけ離れている。キーボードを打つと、スクリーンにことばが映し出される。そういうことが机の上で起こる。かわいい子には旅させよ。この電子エクリチュールでは、いってみればことばは小学校くらいでもう全寮制のスイスの学校に入学、というくらい早い時点で書き手から離れ、書き手の前に大人の顔で立ち現れる。(中略)
そう考えると、この電子の言葉が、書き言葉でありつつ、ずいぶんと話し言葉の要素をも濃厚に合わせもつ、「書き言葉=話し言葉」的な、新しいメディアであることがわかる。(pp.230)

引用における「ことば」と「言葉」の使い分けを見ると「電子の言葉」は「電子のことば」にすべきだったのではないかと思いましたが、それはさておき、概念提示の仕方といい、巧みな比喩といい、感嘆のほかない文章です。

小林秀雄(1902~1983)の『徒然草』評を検討したページでは、

ふつうのことをふつうにいう。それがどんなに大事なことかと、ちょっとふつうではない言い方で、小林はいうのだ。(pp.192)

加藤氏は全2行の短文にて『徒然草』を認め、小林への軽い疑義をほのめかし、さらに批評の神髄ともいえる要件を掲げる、これらの作業をみごと成しとげました。

すごい技巧です。

以上、わたしにとって満足度が高い読書だったものの、「瑕疵(かし)なのでは」と感じる箇所がひとつだけありました。

西欧社会はむろん個人の社会化の上に成っている。しかしその個人の社会化はゆきわたるや西欧社会を空疎なものに変え、「実証主義思想」によってすっかりそこに生きる市民の「人間性」を形式的なものにしてしまった。(pp.173)

説明なしに「実証主義」が用いられていますが、一般的な解釈をすれば、同語は「科学」を指します。

科学が人間性を変えた……?

変えませんよ(科学と人間性は位置する次元が異なりますので)。

たとえヨーロッパ市民の人間性が「形式的なもの」になってしまっているとしても、科学や科学思想が真犯人ではないでしょう。

アメリカの行動主義心理学者スキナー(1904~1990)が書いた小説、

B・F・スキナー著『心理学的ユートピア』、誠信書房(1969年)

スキナーは主人公を通し、

ある出来ごとに対しては科学者として行動しながら、しかも、それ以外の時間は少しも生活の喜びを破壊させずにすむということです。植物学者は花園の美しさを楽しむことができます。(中略)植物学者の科学的知識は花園の美しさを見るための邪魔ものでしょうか。(pp.256)

と語りました。

この考えかたを加藤氏の言説への反論にしたいです。

なお、スキナーはわたしの学問上の師ながら、『心理学的ユートピア』は死ぬほど退屈な作品でした。

金原俊輔

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