最近読んだ本351
『いまこそ「小松左京」を読み直す』、宮崎哲弥著、NHK出版新書、2020年。
新型コロナウイルス禍が収束の気配すら見せていない2020年7月現在、あちこちで、
小松左京著『復活の日』、角川文庫(1975年)
が、語られるようになりました。
昨今の世界情勢にずいぶん一致するストーリーだからです。
わたし自身は『復活の日』を未読なものの(映画だけ観ました)、小松左京(1931~2011)は好きな作家です。
空前のベストセラーとなった、
小松左京著『日本沈没』、光文社カッパ・ノベルス(1973年)
骨太な最上級のSF小説と感嘆しました。
中編である、
小松左京著『やぶれかぶれ青春記』、旺文社文庫(1975年)
けっして名作ではないのですが、手にしたとき自分が20歳になったばかりの若さだった関係で、引きこまれて読み進んだことをおぼえています。
短編類は、おそらくほとんどに目をとおし、いちばん印象にのこったのは、
小松左京著『くだんのはは』(収載:『異形の白昼』)、集英社文庫(1986年)
でした。
話を冒頭に戻しますと、わたしは当初、宮崎氏(1962年生まれ)がコロナと『復活の日』を比較考察するために『いまこそ「小松左京」を読み直す』を執筆されたのだろうと考えました。
ぜんぜん違っていました。
本書のなかで、コロナも『復活の日』も、ほとんど触れられてはいません。
小松にとって意想外で、そして少しばかり不幸だったのは、「言語ゲーム」を異化してみせるために仕込んだ、あり得そうであり得ない破局なのに、その設定に近い事態が実際に出来(しゅったい)してしまったことだろう。その都度、彼の小説が「予言の書」として思い出され、話題になり、多くの読者を獲得するところとなった。
例えば、地震や噴火、津波による大きな災害が起こる度に『日本沈没』が参看され、アメリカに孤立主義(アイソレーショニズム)を標榜する政権が登場するや『アメリカの壁』が読み直され、新型ウイルスを病原体とする感染症が流行すれば『復活の日』が改めて話題になる、といった次第である。(pp.284)
せいぜいこれぐらいです。
時世などは度外視した、純粋で奥深い小松左京論でした。
さて、わたしが宮崎氏を知ったのは、約20年前、池袋の新古書店の棚においてです。
宮崎哲弥著『身捨つるほどの祖国はありや』、文藝春秋(1998年)
読了し、博識・聡明な論客が登場したと感じました。
爾来、氏が上梓された(仏教解説書以外の)本は読みつくしました。
最近あまり新刊を見かけなかったのですが、それだけに『いまこそ「小松左京」~』は、わたしにとって嬉しい出版でした。
『日本沈没』がわれわれ読み手に突き付けているのは、大規模地震をはじめとする災害の脅威でも、防災のための国土改造の緊要性でもありません。(中略)
この作品の意図は、全壊全滅の危機に瀕している状況を媒介として、戦後日本社会の「総体」を明確に炙り出すことにあった。これも一種の「思考実験(ゲダンケンエクスペリメント)」だったのです。(pp.162)
わたしは『日本沈没』の執筆動機は「日本人とは何か」を「炙り出すこと」だったのではないかと推測しますが、これは誰がどう受け止めようとかまわない事項でしょう。
小松SFは「現代の神話」と位置づけられるのです。(pp.275)
まさに適切な比喩です。
そういえば、宮崎氏は『身捨つるほどの~』内でも小松について言及されていました。
新型コロナウイルス感染症と『復活の日』の類似性がどうあれ、古くから小松左京という偉大な文学者を注視なさっていたわけです。
金原俊輔