最近読んだ本371
『歴史の中で語られてこなかったこと:おんな・子供・老人からの「日本史」』、網野善彦、宮田登 共著、朝日文庫、2020年。
歴史学者の網野善彦(1928~2004)、民俗学者の宮田登(1936~2000)、ふたりの碩学による専門的な対談です。
対談は20世紀後半、複数回にわたっておこなわれました。
両人とも相手の学殖・業績に敬意を示しながら談話を進めており、読んでいて気もちが良くなります。
学問を究めた者同士は、かくありたいものです。
対談の基底をなすテーマは歴史学と民俗学の融合および相互啓発でした。
網野 いや、歴史学と民俗学は対抗していた時期もありますが、相互に影響しあっていると思います。
宮田 たぶんそうだと思う。歴史学は社会構成史という枠組みで考えていて、民俗学は民間些事といって、細かな具体的なデータを通しながら日本文化を見ようとする。(後略)(pp.66)
こういうふうに。
近年の動きは、
宮田 歴史学だ民俗学だと無理に分けなくてもいいのではないか、という論文も若い世代から次々と出される状況になった。
もし民俗資料の扱い方を技術的に問題にするならば、柳田の分類だけに依存しないで、自分なりに民俗資料を整理分類することでもいいと思います。(pp.202)
なのだそうです。
根本テーマにからめつつ、『歴史の中で語られて~』では、日本における女性・子ども・高齢者の立場がさまざまな視点をとおし検討されました。
以下は、わたしが読書中に考えたこと、推し量(はか)ったことです。
まず、
網野 宮田さんは『老人と子供の民俗学』の中で、お婆さんはあまり日本の社会では積極的な役割を果たさない、と言っておられますね。
宮田 そうなんです。先にふれた妖怪のババや姥捨ての姥が実子をかわいがる心境はわかるんですが、社会的な機能は、婆さんの場合にはあまりない。媼と翁の関係でも、翁の方が中心に描かれ、翁の神聖な姿にお婆さんの媼が付属しているかたちですね。(pp.84)
ユング派の心理学者が「元型」概念を用い解説を始めたくなるのでは、と思われるくだりでした。
わたしは「日本のゲームは(諸外国製作のゲームとはちがい)老人キャラを最強として設定している」と聞いたことがあります。
この件にも上述の傾向が関与しているかもしれません。
つぎに「従軍慰安婦」問題。
網野は往年の日本軍を振りかえり、
網野 慰安婦になった女性の多くは、当時の日本の植民地や占領地の人たちで、いわば「外」の女性です。ですから、まったく大切にしようとは思わない。
宮田 よその「村」の女性なわけですね。
(中略)
網野 自分の「村」=日本の女性は大事にするが、外の世界の女性で、しかも敵対している国の女性となれば、強制的に集めてもなんとも思わないところがあるのではないでしょうか。「従軍慰安婦」問題の背景には、こうした問題がありますね。(後略)(pp.144)
そのうえで、証拠のあるなしばかりを論ずるのではなく、当該問題をわが国の「歴史・民俗まで含めて考える(pp.146)」べき、と提言しました。
強い不同意を唱えるわけではありませんが、個人的には、なによりも証拠を重視してほしいと望みます。
強制を受け従軍慰安婦となられた皆さまにたいし、深謝申しあげます。
最後の引用は、
網野 私たち歴史家は最後まで民俗学については、せいぜいかじっている程度でしかないと思うんです。だって聞き取りなどしたことがないのですから。(pp.202)
くわしくは知らないものの、郷土史を研究する歴史家諸氏はあちこちに赴き「聞き取り」をなさっているのではないでしょうか……。
ともかく本書は、対談者たち双方の知識量に圧倒される反面、門外漢だから排斥されたと感じたりなどしない、社会科学・人文学の意義に改めて気づかされる一冊でした。
金原俊輔