最近読んだ本448
『コロナと無責任な人たち』、適菜収 著、祥伝社新書、2021年。
新型コロナ下にあって不適切な言動をした我が国の政治家・評論家諸氏をあげつらう、辛口の人物評でした。
適菜氏(1975年生まれ)はこうした非難を軽妙に記述するのがお得意。
われわれ読者は、失笑しつつ、嘆息しつつ、氏の作品を読みすすむこととなります。
本書も例外ではありませんでした。
それでは、内閣総理大臣・菅義偉氏の項(項題は「陰湿なチンパンジー」)を、引用してみましょう。
2020年11月、(中略)「Go To キャンペーン」が感染拡大を招いたとの批判を浴びた菅は、「分科会からトラベルが感染拡大の主要な要因でないとの提言をいただいている」と専門家に責任を転嫁(てんか)します。それに対し分科会の尾身茂会長は、国会の閉会中審査(同年12月16日)に出席し、「人の動きを止めることが重要で、Go Toも考えるべきと再三申し上げている」と証言します。(pp.51)
医学の見解と政治的判断が一致しない事態はあり得るでしょうから、わたしはそこを責めたりなどしません。
しかし、もしも菅総理が批判にたいし嘘や責任転嫁で応じたとすれば、国のトップとして実に情けない行為です。
ほかでも、書中、きびしい弾劾が陸続とおこなわれました。
著者がどなたかを褒めた文章は、コロナ禍での「東京オリンピック・パラリンピック」開催に関して、
陸上女子の新谷仁美選手は「アスリートとしてはやりたい。人としてはやりたくないです」「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思います」と発言。この言葉に尽きると思います。(pp.168)
これぐらいでしょうか。
そして今回、わたしが膝を打ったのは、「保守」に関する著者のお考えです。
政治的スタンスとしての保守とは近代の理想が暴走することに警戒を示す知的で冷静な態度のことです。理想を掲げ復古という形をとる右翼とは異なり、近代の不可逆性を前提にその内部において思考停止を戒める姿勢のことです。よって、近代の正確な理解がないところに保守は成り立ちません。(pp.157)
含蓄がただよう一節でした。
わたしは自分自身を保守と受けとめているものの、当方「知的」ではなく、「近代の正確な理解」にもいたっておりませんので、「バカが保守を自称する(pp.156)」傾向に該当するみたいです。
反省しました。
ここで、思いついた妙案があります。
本稿冒頭で述べたとおり、著者には他人を論詰している作品が多く、それはそれでおもしろいのですが、
もちろん一部には、まっとうな保守もいましたが例外中の例外です。(pp.158)
世間に知られていない「まっとうな保守」の評伝を書いてくださったら、わたしにとって、日本社会にとっても、かなり参考になるのではないかと想像しました。
金原俊輔