最近読んだ本480:『雲上の巨人 ジャイアント馬場』、門馬忠雄 著、文藝春秋、2021年

ジャイアント馬場(1938~1999)、本名は馬場正平とおっしゃいます。

日本が生んだ最も偉大なプロレスラーのひとりで、「絶頂期の最高体重が145キロ(中略)身長2メートル9センチ(pp.18)」の巨軀を誇られ、複数のチャンピオン・ベルト所持者でした。

上掲書は、彼と親しい間柄だった東京スポーツ新聞社の記者・門馬氏(1938年生まれ)による、馬場氏が主人公の懐旧談です。

わたしの場合、子ども時代1~2年間だけのプロレス・ファン。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木(1943年生まれ)がタッグを組んでいたころ、テレビで応援していました。

私は、ジャイアント馬場のレスラーとしてもっとも脂の乗っていたのは、初めてのアメリカ武者修行より帰国した1963年3月から、72年9月、日本プロレスを退団するまでの約9年間だったと考える。(pp.53)

既述タッグは1967年から1971年までだったらしく、わたしは偶然全盛期のジャイアント馬場を観ていたようです(やがてプロレスへの興味をなくしました)。

なお『雲上の巨人~』では猪木氏の挿話が頻出しません。

往時はタッグ仲間だったのに「全日本プロレス(馬場氏の団体)」と「新日本プロレス(猪木氏の団体)」設立のせいで絶縁してしまったのだろうか、馬場氏側でいらっしゃる著者は猪木氏の話題を書きたくなかったのだろうか、と案じつつページを繰りました。

新日本と全日本の興行合戦の真っ只中、新間さんが、馬場のことをけちょんけちょんにけなした時があった。
「なあー、新間、そんなに馬場さんを悪くいうなよ。むかし、お世話になったんだから」と猪木がたしなめた、という話が伝わってきている。
馬場と猪木の関係には、肌と肌を接触してきたプロレスラー同士にしかわからぬ絆のような結びつきがあるのではなかろうか。(pp.155)

すこしホッとしました。

ところで、

ジャイアント馬場がプロレスビジネスにおいて大事にしたのは「信用」と「信頼」。これを全日本の経営理念とし、ルールと秩序を守った。(pp.209)

おそらくその賜物なのでしょう、彼は多くの外国人レスラーの「信用」「信頼」を獲得していた模様です。

 ドリー・ファンク・シニア(1919~1973)

 ザ・デストロイヤー(1930~2019)

 ブルーノ・サンマルチノ(1935~2018)

 アブドーラ・ザ・ブッチャー(1941年生まれ)

 ハリー・レイス(1943~2019)

 アンドレ・ザ・ジャイアント(1946~1993)

こんな人気選手たちが馬場氏個人および全日本プロレスに衷情をしめしたエピソードがいくつも紹介されました。

一例をあげれば、ハリー・レイス。

レイスは、猪木・新日本に見向きもせず、全日本一筋だった。外国人レスラーたちに睨みを利かせ、馬場夫妻を徹底的にガードした愛すべき用心棒だった。(中略)
馬場とレイスは、太平洋を股にかけた義兄弟のようなものだった。(pp.211)

外国人と日本人がここまで心を通わせるのは並大抵のことではありません。

ジャイアント馬場がもっていた魅力的な人間性が参酌されます。

そのほか、大相撲の力士を廃業したのち、ボクサーとなって日本ミドル級を制覇し、ボクシング引退以降はボウリング場所属のインストラクター、さらに転身してプロレスのレフェリーになったかたの話。

あるいは、美術館の館長で藤田嗣治(1886~1968)の作品コレクターとしても有名な高齢男性が「ジャイアント馬場後援会長」に就任したり馬場氏に藤田の絵をプレゼントしたりした話。

はたまた、高校野球出身でプロレス界へとすすみ、馬場氏の付き人を務め、やがてデビュー、現役を退いてからは後進の育成に尽力していたものの、内臓疾患にかかり35歳の若さで逝去された人物の話。

『雲上の巨人~』は、ジャイアント馬場ご自身そして彼を取りかこむ人々の一種独特な生涯を知り、彼らのほとんどがすでに没したため人生のはかなさを惟(おも)んみる、コクがあって枯れた味わいも漂う随筆でした。

金原俊輔