最近読んだ本501:『川端康成と女たち』、小谷野敦 著、幻冬舎新書、2022年
小谷野氏(1962年生まれ)が精査に基づく評伝を再度出版されました。
本コラムで同氏の著作を複数回とりあげている事実でも明らかなように、わたしは氏の愛読者。
ただ、「最近読んだ本499」、これを読了した以降は、他のどんな文芸評論を読んでも劣っていると感じられてしまいます。
小谷野氏が悪いわけではありません。
『なぜ漱石は終わらないのか』が良すぎただけのこと……。
さて、小谷野氏は『川端康成と女たち』で、川端康成(1899~1972)の人間関係を、おもに女性たちとの関係を中心に、作品論をも交えつつ、細大漏らさず論じました。
労作です。
まず、川端が有した人間関係にまつわる話題を見てみましょう。
川端は退院し、芥川賞の選考に加わり、石川達三「蒼氓」を受賞作に選び、選評を書いた。候補の一人であった太宰治について「私見によれば、作者目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった。」と書いた有名なものである。太宰は怒り、『文藝通信』十月号に「刺す。さうも思つた。」と書いた。(pp.49)
太宰治(1909~1948)を殺気立たせる一幕があった由でした。
女性関係についてひとつ紹介すると、以下は、川端康成・秀子夫妻の養女になった政子のエピソード。
政子は姉妹中でも特に美少女なので、川端が望んだのかと思うが、(中略)富江の側でも、政子なら川端がかわいがってくれるだろうと、川端の好みを忖度するということもあったかもしれないし、そういう美少女を引き寄せるのも、川端の才能の一つかもしれない。(pp.206)
富江は政子の実母です。
実際に「川端の才能」が影響したかどうか分りませんし、まず影響などしなかっただろうと考えられますが、興味がそそられる文章ではありました。
3番目として、作品論。
『山の音』での、川端の新聞記事の使い方は、小説を書く人の参考になる。しかし『山の音』のうまさには驚く。戦前の川端の、長編小説を書けばたいてい支離滅裂になるか尻切れトンボになっていたのから考えると、いつの間にこんなうまい小説を書くようになったのだろうと思う。(pp.166)
ノーベル文学賞を受賞した文豪に対しずいぶん仮借(かしゃく)ないコメントであり、とはいえ、こういう無遠慮さが小谷野氏の持ち味です。
最後に、『川端康成と~』内で啓発されるところが最も大きかったのは「序文」の一節でした。
私たちは、シェイクスピアや『源氏物語』やホメロスを、古典的名作文学だと思っている。それに間違いはないが、シェイクスピアからは四百年、『源氏』からは千年、ホメロスからは数千年しかたっていないということを忘れるべきではなかろう。(中略)
数万年たってもこれらが名作かどうかは、実は分からないのである。(pp.18)
小谷野氏は比較文学を専門となさっているため、名作あつかいを受けた小説がいつしか忘れ去られてしまう諸例を熟知しておられると想像され、だから引用した広角な発想が出てくるのでしょう。
時間間隔ははるかに短くなるものの、かつて一世を風靡したのに現在は失速している、
仮名垣魯文 著『安愚楽鍋』(1871年)
尾崎紅葉 著『多情多恨』(1896年)
島田清次郎 著『地上』(1919年)
中河与一 著『天の夕顔』(1938年)
田宮虎彦 著『足摺岬』(1949年)
等々を、わたしですら思い浮かべることができ、つまり「数万年」といわず数十年あるいは百数十年の単位で声価低減にいたった作品が山ほどあるわけです。
金原俊輔