最近読んだ本509:『人生百年の教養』、亀山郁夫 著、講談社現代新書、2022年

ロシア文学者として高名な亀山氏(1949年生まれ)ですが、わたしの場合、氏の著書を読むのは今回が初めてでした。

「教養」こそが、一世紀の時を創造的に生きる、唯一かつ最高の道であると私は考えています。(pp.11)

「人生百年時代」と呼ばれる長寿時代をいかにゆたかに生きるか、そのためのアイデアをいくつか披露します。(pp.15)

こうしたお気もちでお書きになったエッセイ。

ご自身の少年期や青年期を回顧し、教養獲得を模索するなかで倦(う)まず弛(たゆ)まずご勉強された日々を詳述なさいました。

英語の勉強です。始めたのが小学四年生のとき。(中略)五年生で中学二年生の教科書、六年生で中学三年生の教科書と、どんどん進んでいきました。(pp.88)

ある日、私の中学生生活を根底から揺り動かす事件が起こります。ドストエフスキーとの出会いです。(pp.93)

私をアンドレ・ジッドに向かわせました。(中略)新潮文庫で手に入れることができた作品をすべて読破し、ジッドの日記まで読みました。(pp.110)

教養を重視していない人にとってはたんなる昔語り、しかし、教養を重視する読者にとっては滋養に満ちた作品です。

趣向が異なるため準(なぞら)えるのは的外れかもしれないものの、わたしは、

J・W・ゲーテ 著『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、岩波文庫(2000年)

を連想しました。

ところで、亀山氏は高校時代に小説を執筆されたそうです。

ドイツの作家シュトルムの『みずうみ』を読んだのがきっかけです。(中略)主人公ラインハルトが愛する少女エリーザベトが私の恋人となりました。(pp.100)

わたしとて20歳ぐらいだったころ『みずうみ』を読みました。

にもかかわらず、感奮して小説を書いたりはせず、すでに粗筋も登場人物たちの名前も忘れてしまっていて、この辺が氏のような碩学と当方のような浅学菲才との違いなのでしょう。

違いといえば、亀山氏は中学校時代、ブラスバンド部で活動され、そのあと、

高校入学と同時に入ったクラブが管弦楽部でしたが、(中略)夏休みが終わるとすぐにヴァイオリンを返却し、演劇部に入り直しました。(pp.99)

東京外国語大学ご入学後は、改めて管弦楽部へ入部された由です。

私は学長として物事を考えるときに、大学という組織全体をオーケストラになぞらえ、そこで演奏される音楽については、ポリフォニーの考え方に則り、しばしば各声部を大学院、学部、学科の各部局の存在に重ね合わせます。(pp.227)

豊かな文化的素養をお仕事に結びつかせていらっしゃる模様です。

ただし、スポーツのご経験はおもちでないみたいでした。

わたしは正反対。

若かった時代、終始スポーツに励み、文化部方面へは近づいたことすらありません。

真の教養は、たんに「共通知」のカタログと化すことなく、真に人間の知と情念の一体化したものとして、「経験」されるべき何かなのです。(pp.28)

だとしたらスポーツだって取り組んでいただきたかった……。

いっぽう、著者が書中、文学と音楽に加え、アニメそしてマンガにも触れていらっしゃったのは妥当ですし、マンガ・ファンのわたしは喜びを感じました。

最後に、一箇所だけ、納得できない文章が。

日本の人々の英語に対する傾倒が、自らの文化を自らの手で根絶やしにしていくかのような印象を拭えないのです。そのことに強い危機感を覚えています。(pp.157)

わたしは日本(とりわけ教育界)が英語を第一外国語として重視している状況に賛成であり、それによってわが国の文化に危機がおよぶと案じてはいません。

というのは、ヨーロッパ諸国において英会話能力を有する人々は多く、されど、一国の文化が英語に脅かされた事例はほとんどない、と認識しているからです。

金原俊輔