最近読んだ本551:『歴史はなぜ必要なのか:「脱歴史時代」へのメッセージ』、南塚信吾、小谷汪之、木畑洋一 編、岩波書店、2022年

個人的に、あまり感心しない内容の読物でした。

納得できない箇所や文章がいくつもあったせいでそう思ったのですが、以下、納得できなかった記述のうちから4つを選び、説明します。

まず、第1番目。

副題にも入れているほど「脱歴史時代」は『歴史はなぜ必要なのか』における重要な概念です。

だからでしょう、編者3氏は本書の早々、「はじめに」で、脱歴史時代の定義をお書きになりました。

けれど、これが妙であり失礼でもありました。

「歴史」とは、最低限、「過去」を大事にして、「今」や「自分」との関係で、そこから教訓や示唆を得ようという姿勢を指す。そういう姿勢が今日なくなりつつあるということである。(pp.v)

なぜに妙または失礼かというと、編者たちはわたしが引用した上記文の直前の行で、大意「歴史好き(pp.v)」な層は「今日、ますます広がっている(pp.v)」と述べられていて、そうすると、現代の歴史好きたちは過去を大事にしていない、「今」「自分」との関係で教訓や示唆を得ようとしていない、こう言っているのと同様になるのです。

過去を大事にしない歴史好きとは人としてのどのようなありかたを指しているのか不明確ですし、歴史から教訓・示唆を得ようとする姿勢の衰微とは如何なるデータに基づいたうえでのご発言なのかという疑問もおぼえました。

第2番目に、編者らはどうして昨今が脱歴史時代となってしまったかについて、

(1)時代の急速な動き、(2)「冷戦」後の思想状況、(3)「ポストモダン」の影響、そして(4)「ポスト真実」の影響など、いくつもの要因(後略)。(pp.11)

を、指摘なさっていました。

(1)~(4)が「『脱歴史時代』を生み出してきているのである(pp.11)」という結論は、しかし、首肯できるものではありません。

時代が急速に動き、ポスト真実的な言説が横行するのは、いつの時世とて大同小異で、思想状況やポストモダンの影響を受けてあたふたしているのは、一部の軽佻なインテリ連中だけでしょう。

3番目に、第3章「ラグビーは世界史の産物です」。

章題自体が当たり前すぎです。

クリケットだって、アイスホッケーだって、弓道だって、マラソンだって、どれも「世界史の産物」であり、世界史と密接に関わっているわけで、歴史をあつかう書物において、本章のごとくわざわざ1章全部をつかいラグビーが世界史の産物であると論じる場合は、ラグビーに色濃く、他のスポーツでは全然色濃くない、何らかの歴史がらみの特異性を提出してほしかった……。

なにも提出されていませんでした。

わたし自身は(そして、おそらく大多数のラグビー関係者も)ラグビーこそ世界史の愛児みたいなものだなどと、ゆめゆめ思っていません。

最後に、第5章「『核』を考える」。

広島・長崎で悲惨な体験をし、今なお苦しみが続いている被爆者が日本内外にいながら、「自衛のための核兵器」は必ずしも憲法の禁止するところではないという認識なのである。このような認識の元首相が「核シェアリング」を訴えていることは、核兵器で攻撃された国自らがその有効性を認めたことになり、核保有国による「核の脅し」にますます拍車をかけ、核戦争への危険性を高めていると言える。
「低核出力」「高核出力」「使える核」「核シェアリング」といった言葉は、核被害を受ける側の歴史をかき消す言葉そのものである。(pp.105)

わたしの反論は、

(1)日本国憲法には核兵器に関する直接的な規定はない。したがって、解釈次第で「必ずしも憲法の禁止するところではない」と主張するのは可能

(2)日本が核シェアリングをしようがすまいが、日本が独自に核兵器を持とうが持つまいが、わが国の動きとは無関係に、核保有国の核の脅しは継続してきたし、今後も継続するはず

(3)核の脅しは、核戦争への危険性を高め得るものの、実際には、むしろ核戦争の抑止力として働いてきている

(4)たかが「低核出力」「高核出力」「使える核」「核シェアリング」といった言葉によって、日本の核被害の歴史はかき消されたりしない。そもそも、そんな言葉と原爆被爆の史実に、ほとんどつながりはない

以上です。

時間の無駄に終わってしまった読書となりました。

金原俊輔