最近読んだ本599:『アイヒマンと日本人』、山崎雅弘 著、祥伝社新書、2023年
大学生だったとき、わたしは心理学の講義で、米国人心理学者スタンレー・ミルグラム(1933~1984)がおこなった服従に関する実験のこと、そしてそれが「アイヒマン実験」なる別称をもっていることを、学びました。
これがアイヒマンの名前を知った最初です。
オットー・アドルフ・アイヒマン(1906~1962)。
ドイツ人男性で、ナチ党員となり、ナチス親衛隊にも入隊、第二次世界大戦中はユダヤ人強制収容所移送の実務を取り仕切りました。
「600万人ものユダヤ人を組織的に殺害するという『国策』(pp.217)」の担い手だったのです。
ドイツ敗戦後はアルゼンチンへ逃げ込み、家族とひっそり暮らしていたものの、イスラエル秘密情報機関「モサド」に発見され、身柄拘束、イスラエル連行となりました。
イスラエルにおける尋問や裁判ののち、彼は死刑に処されたのですが、尋問・裁判で終始一貫、
「自分は命令に従っただけで、ユダヤ人の殺害や迫害について責任を負わない」と主張した。(pp.178)
この主張が物議をかもしました。
人は命令されたらどれほど非道なことでも遂行してしまうのかという人間性に対する根源的な疑念が世界規模で生じ、既述ミルグラムの研究などへとつながっていったのです。
『アイヒマンと日本人』は、アイヒマンの生涯をナチスの興亡および第二次世界大戦の趨勢に照らし合わせつつ紹介したノンフィクション。
名前だけしか知らなかった人物の姿が鮮明になり、その人物の行為にショックを受け、犠牲者たちの絶望を思い、自省も促され、感情が揺れ動く読書となりました。
さて、イスラエルでアイヒマンの裁判を傍聴した政治哲学者ハンナ・アーレント(1906~1975)は、
アイヒマンを「異常な怪物」でなく「ごく普通の人間」であるかのように(後略)。(pp.190)
見なしました。
おなじく傍聴者だった評論家の犬養道子(1921~2017)も、
私を含むすべての「普通の」人の中に、きっかけさえ与えられれば、彼と大差ない存在となり得る、どす黒い悪魔的な可能性が潜んでいるということか……。(pp.195)
こう記しています。
わたしも「ごく普通の人間」に「どす黒い悪魔的な可能性が潜んでいる」との想定に賛同します。
とはいえ、当時のドイツには「シュタウフェンベルクやフリードリヒ・オルブリヒト、トレスコウら(中略)ヒトラーとナチスに抵抗した人々(pp.208)」がいたし、日本にも本国からの指示に背きユダヤ人たちの命を守った杉原千畝(1900~1986)や根井三郎(1902~1992)がいました。
そういう信念をもっている人は各国・各時代にたくさんいて、たとえば、第二次世界大戦中、ナチスの命令に従わず処刑されたオーストリア人フランツ・イエーガーシュテッター(1907~1943)、信仰上の理由で武器の所持と敵兵(日本兵)殺傷を謝絶した米軍人デズモンド・T・ドス(1919~2006)、ベトナム戦争の際は、戦争に反対し徴兵拒否をしたため王座を剥奪された米国人ボクサーのモハメド・アリ(1942~2016)、近年だと、イラク攻撃で用いられるソフトウェア開発を拒んだドイツ連邦軍フロリアン・プファフ少佐(1957年生まれ)、などが代表例でしょう。
なお、プファフ少佐の事案は、本書219ページで言及されていました。
悪魔的な可能性はおそらく誰もが有しているだろうとはいえ、有しかたに大小強弱の違いがある、また、有しているものを発現させる環境の影響も無視できない、ただし、大小強弱がどうあれ環境がどうあれ頑として可能性の発現を抑える気骨の持ち主とている、このように認識するべきなのかもしれません。
最後ですが、わたしは、本書タイトルに「日本人」が含まれる必然性はない、第5章の最終段落「なぜ日本人はアイヒマンという人間に強い関心を持つのか(pp.223)」は蛇足、と感じました。
金原俊輔