最近読んだ本618:『ベートーヴェン捏造:名プロデューサーは嘘をつく』、かげはら史帆 著、河出文庫、2023年
倒叙ミステリーと称される分野があり、これは物語の冒頭から真犯人が誰なのか分っている種類のミステリーを意味します。
『ベートーヴェン捏造』は、さしずめ倒叙ノンフィクション。
音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の秘書だったアントン・シンドラー(1795~1864)なる人物が上掲書の主人公で、彼がベートーヴェンの伝記を書くにあたり多数の捏造をおこなった顛末を描いた作品です。
どうしてそんな愚行を演じたかといえば、ひとつにはシンドラーがベートーヴェンを崇拝し世間におけるベートーヴェン像を汚したくなかったため、もうひとつは楽聖の身近にいた自分自身の存在価値を高めるためでした。
ベートーヴェン伝執筆のときだけではありません。
聴覚に困難があったベートーヴェンは他者との筆談コミュニケーション用に「会話帳(pp.12)」と呼ばれるノートをつかっていたのですが、本人の死後、シンドラーは会話帳を盗み、それが重要な史料となることを見越したうえで余白にあれこれ嘘を書き加えたのです。
今日(こんにち)、残存しているのは全部で139冊。(pp.12)
結果的に「残存している会話帳の46パーセントに、何らかの改竄の書き込みが存在していることになる(pp.327)」由でした。
衝撃です。
以上は、1977年、東ドイツ(当時)でひらかれた「国際ベートーヴェン学会」で明らかになった事実。
ベートーヴェンが、『交響曲第五番』の「ジャジャジャジャーン」というモチーフについて「このように運命が扉を叩くのだ」と述べたというエピソード。(中略)
あまりに有名な伝説は、シンドラーの『ベートーヴェン伝』によって最初に報告され、その後、爆発的に世に広まった。他にソースとなる史料はない。(pp.20)
音楽に疎(うと)いわたしですら引用エピソードを耳にしています。
というか、知らない人は世界にあまりいないでしょう。
ことほど左様に有名なエピソードがシンドラーの作り話であるかもしれないとは……。
かげはら氏(1982年生まれ)は登場人物たちをよく調べ、ポップな文体を駆使なさりつつ、この評伝をまとめあげられました。
一気呵成に読み進んでゆける秀作です。
それにつけても、わたしは10代後半から10年間ほど偉人たちの伝記を渉猟し、たしかベートーヴェン伝だったと思います、「運命の喉元をとらえて引きずり回してやる」という気迫あふれる言辞に接して発奮しました。
もしかしたら、これ、シンドラーのでっちあげセリフだった?
金原俊輔