『アメリカ人はどうしてああなのか』、テリー・イーグルトン著、河出文庫、2017年。

ケンブリッジ大学を卒業しイギリスで活躍されている著者(1943年生まれ)が、おもにイギリス人と比べつつ、アメリカ人を批評・揶揄(やゆ)した本です。

わたしは「きっとイギリス風ユーモアが満載だろう」と期待して読みだしました。

しかし、たしかに笑える文章は散在していたのですが、説明がくどく、修辞過剰、教養のひけらかしもあって、それほど楽しめる読書とはなりませんでした。

アメリカ人は、ベッドにはいったままでいることが、どれほど満ち足りた豊穣で限りなく魅力的な営みかをご存知ないようだ。英国(イングリッシュ)貴族が、何世紀もかけて、ようやく完成した術に、何もしないという術があるが、これは、たいへんなスキルと、粘り強い意志、揺るがぬ集中力とを必要とする過酷な厳しい営みなのだが、それと同じで、ベッドのなかでまどろみつづけるという営みは、情熱であり、天職であり、宗教であり、実存主義的な参加(アンガージユマン)であり、生活様式の全体となりうるのである。(pp.150)

アメリカ人のピューリタン的な勤勉さをからかったくだりです。

わたしは「何もしないという術がある」のところで軽く「クスッ」ときたものの、あとはウンザリしながら読みすすみました。

ほかでは、

みずからの達成失敗によって生ずる障害があるにすぎない。マクベスは「人間にふさわしいことなら何でもやってみせるが、それ以上のことをする者は、もはや何者でもなくなる」と語るのだが、こうした観点とは、およそかけ離れた現実のヴィジョンと言えるだろうか。その欲望がみようとしないこと、それは、制約が障害というよりも創造的であること、また限界は邪魔をするどころか後押しをするということである。(pp.152)

はたまた、

病理学的楽観主義とも呼んでさしつかえないかもしれない態度は、その自信に満ちた笑顔としっかりとした眼差しにもかかわらず、実際には弱さの表れである。それは損失に直面することへの恐れを反映しているが、損失は人間存在において、達成よりももっとはるかに中心的なものである。(pp.222)

もはや何についての本を読んでいるのか分らなくなってしまいます。

衒学的すぎるのです。

全編このような調子でした。

イギリス人の言葉づかいが(アメリカ人とちがって)控えめであるということを力説している箇所では、とつぜん日本が登場してきます。

地震と津波と大規模火災と原子炉メルトダウンの危機にみまわれた直後の日本にいたあるイギリス人が、BBCテレビから状況を聞かれたことがあった。彼はこう答えたのだ-「ええ、あまりよくはないですね(ノット・ヴェリー・ナイス)。これは起こらなかったほうがよかったと思いますよ」と。「あまりよくはない」というのは、「信じがたいほどひどい」を意味する英国式表現である。(pp.98)

これはまだしも意味が通るほうでしょう。

わたしは本書を購入し、あまつさえ読み終えてしまって、いまとなっては後悔しています。

もっとキリッとしたユーモアに触れたかった……。

たとえばイギリスのジェローム・K・ジェローム(1859~1927)の作品におけるような。

さあ、それではここで、わたしが読んだユーモラスな文学の「トップ・ファイブ」を列記させていただきます。

洋の東西は問いませんでした。

第1位 『ボートの三人男』、ジェローム・K・ジェローム著、中公文庫(1976年)

第2位 『吾輩は猫である』、夏目漱石著、角川文庫(1962年)

第3位 『いたずらの天才』、A・スミス著、文藝春秋(1963年)

第4位 『マーク・トウェイン短編集』、マーク・トウェイン著、新潮文庫(1961年)

第5位 『サキ短編集』、サキ著、新潮文庫(1958年)

『マーク・トウェイン短編集』では「ハドリバーグの町を腐敗させた男」を、『サキ短編集』では「開いた窓」を、とくにおもしろく感じました。

それにしても、こうして並べてみると古い時代の小説ばかりですから、できれば近年の傑作に出会いたいものです。

すでに物故されたナンシー関(1962~2002)の諸エッセイが、ブラックなユーモアを含有しており、わたしは好きでした。

金原俊輔