『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊:台湾原住民の太平洋戦争』、菊池一隆著、平凡社新書、2018年。

太古より台湾の地で暮らしていた人々のことを「原住民」といいます(「先住民」とはいいません)。

日本人は「蕃人」「蕃族」とも呼んでいましたが、日本が台湾を統治していた1935年、秩父宮雍仁親王の提案で「高砂族」という名称に改まりました。

つまり、台湾原住民と高砂族は、おなじ意味の言葉です。

そして高砂族である兵士たちの総称が「高砂義勇隊」。

上掲書は、この高砂義勇隊の太平洋戦争における戦いを展望した、歴史ノンフィクションです。

彼らが向かった戦地は、おもにニューギニアとフィリピンでした。

戦闘中、高砂義勇隊の隊員は、

耳がよく、ジャングルの中で「敵が来た」ことを教えた。さらに高砂義勇隊員は鳥の鳴き声の変化から敵の接近を聞き取った。(中略)
日本人隊長も高砂義勇隊員の特殊な能力を再認識しはじめ、アメリカ軍への襲撃などには必ず高砂義勇隊員10人前後を伴い少人数で行動した。(pp.141)

また、

宿営地では、真っ先に芭蕉の葉を切り集めて瞬く間に小屋を作り、雑草をかり集めて、そのうえに傷兵を寝かせ、食事の用意にとりかかる。彼らは「米は兵隊に食べてもらいたい」と言って自らは口にしない。また、パパイヤの葉で即製の煙草を作り、兵隊に勧める。隊員は「どんなに苦しい戦闘や行軍にも一人の落伍者もなく将兵とまったく同じ気持ちで」頑張っている、と。
このように、高砂義勇隊は日本兵の全幅の信頼を受けるようになっていた。(pp.142)

こうした存在でした。

さらには、

某中尉によれば、「高砂義勇隊員の活躍は、今や南太平洋戦線の全将兵から絶大なる讃辞と深い信頼を寄せられている」、あらゆる悪条件を克服し、兵站線の確保から傷病兵の看護に至るまで実に涙ぐましいほどの働きを続けている。(pp.142)

非常に有能な、たのもしい戦士たちです。

日本軍が各戦場で一時期優勢だったのは、きっと高砂義勇隊のおかげなのでしょう。

ほかの賛辞として、

元小隊長の上野保は義勇隊員の強靭さを率直に認めている。義勇隊員は自らの育った台湾の環境から、ニューギニアなどのジャングルに適応でき、マラリアに罹らず、籘や椰子から水分を摂り、アメーバ赤痢にならず、なってもすぐに回復した。そのうえ、ゲリラ戦に適し、40キロもの荷物を搬送する体力、野豚、鳥、魚、果物等の食糧探し、身辺の警護、湿地帯での寝床確保、道案内などにも力量を発揮したという。(pp.155)

彼らの律儀さも日本兵のあいだで信頼されていました。

ある義勇隊員は「忠実な皇軍兵士」で、ニューギニアで前線の将兵に届ける米俵を背負いながら、それに手を出さずに餓死した(後略)。(pp.155)

上記の有名な逸話。

律儀さのあらわれのひとつです。

さて、これほどまでに日本へ尽くしてくれた高砂族にたいし、わが国はどう報いたのでしょうか。

本書のなかで、

ツオウ族の石友家(第3回高砂義勇隊)も、われわれには文字がないため、日本兵は高砂族を馬鹿にして奴隷のように扱い、さまざまな苦役に従事させた、飛行場、道路、橋、堤防はわれわれが完成させたのである、と言っている。(pp.113)

というような、申し訳ない実態が紹介されていました。

最悪だったのは、

ここで看過できないのが、夫、婚約者、恋人が南洋戦場で命を賭けて戦っていた時、残された女たちの一部が近隣に駐屯していた台湾守備隊の慰安婦にされていたという事実である。そのことを知った夫などの苦しみは計り知れない。(pp.88)

引用した文章ののち、複数の悲惨な話が語られています。

台湾守備隊は「大日本帝国陸軍」の師団でした。

言語道断、鬼畜の所業であり、日本軍が高砂族の女性たちの人生・人権をまるで考慮していなかった、残念な事実が窺えます。

後世から厳しく弾劾されるべきことといわざるを得ません。

それでは、戦後の補償は……。

日本の国会では議員立法によって、88年「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」が成立し、戦死者・戦傷者に限って、「弔慰金・見舞金」の名目で、台湾人の元日本兵に一人当たり「200万円を支払う」ことを決議した。(pp.198)

じゅうぶんな金額ではないでしょう。

受給者の範囲も限られています。

これには高砂族の皆様も納得されていない模様でした。

われわれ現代の日本人に何ができるでしょうか?

わたしは、経済的に楽ではない台湾青少年を支援する同国の団体へ、わずかながら寄附金をお送りしてきました。

いま、『台湾高砂義勇隊~』を読み終え、送り先にわたしの寄附の対象を原住民の学生たちに絞っていただくお願いをしよう、と考えだしているところです。

金原俊輔