最近読んだ本383

『「うつ」は炎症で起きる』、エドワード・ブルモア著、草思社文庫、2020年。

わたしのごとく凡庸な臨床心理学徒でさえ読書中たびたび感嘆の唸(うな)り声をあげた、知的刺激満杯の一冊でした。

非常に重要な内容です。

主旨は簡明で、タイトルどおり「炎症がうつ状態の原因である(pp.28)」。

ここでいわれる「炎症」は、日常語とおなじく「感染と損傷に対する体の免疫反応(pp.20)」すべてを指します。

著者(1960年生まれ)は英国ケンブリッジ大学の精神医学科長を務めていらっしゃる医学者。

最初の第1章にて結論を述べられ、のこり計6章で関連情報や補足を語られる、堅牢な話の進めかたをなさいました(このように持って回らない展開は、学術書として望ましいと感じます)。

さて、わたし自身、若かったころうつ病にかかり、直近の35年間はカウンセラー業をとおし膨大な数のうつ病のかたがたとお会いしてきました。

けれども、身体の炎症とうつ病を結びつけて考えたことなど、一度たりともありません。

著者は内科の研修医だったときに診察したリウマチ性関節炎の女性患者がうつ状態であった件や、ご自分が虫歯になった際に気分が落ち込んでしまった件をヒントに、閃(ひらめ)かれたそうです。

すばらしい着想です。

まさしく「コペルニクス的転回」といえるでしょう。

しかも多数の研究者による各種研究結果が著者のアイデアを支えています。

それらのうちのいくつかが書中で参照されました。

デンマークのごく普通の国民で、たとえば物事を成し遂げられないとか投げ出したくなるといった、軽い抑うつ症状がしばしば出る人は、そうでない人に比べて明らかに血中のCRP値は高かった。(中略)
つまり、CRPが示す炎症の度合いが高いほど、負のバイアスのかかった思考や自己批判的な思考という観点から見て抑うつ反応が強いのだ。この関係が偶然に現れる確率は、1兆分の1以下と推定された。
これは確固たる証拠で(中略)何らかの抑うつを感じる人は、炎症を起こしている可能性があるとわかる。(pp.146)

「CRP」とは、体内における炎症の状態を測る指標の由です。

こうした研究が「うつ状態の人は皆、炎症を起こしている。または炎症を起こしている人は皆、うつ病になる」と立証したわけではないということだ。ただ、明らかな統計的証拠によれば、うつ病と炎症が同時に発生する確率は、それが偶然の一致や悪運によって同時に起こる確率よりずっと高い。(pp.147)

要するに、炎症とうつ病には強いつながりがある、人がなんらかの炎症を有すれば、その炎症の症状としてうつが起こり得る、というわけです。

ですので、従来「ストレスを受けたせいで、胃炎になったり抑うつ的になったりする」と看做(みな)されていた病気の流れも「ストレスを受けたせいで胃炎になり、胃炎になったがために抑うつの症状が現出する」、こう訂正されます。

長いあいだの通念をくつがえす見解であり、たとえば、

J・E・サーノ著『心はなぜ腰痛を選ぶのか』、春秋社(2003年)

などで展開された議論は「原因と結果が逆では?」と再考すべき必要性がでてきました。

興味ぶかい……。

わたしは本書に登場した論文類をまったく読んでいませんから、当コラムでは「炎症→うつ病」を仮説と受けとめておきますが、検討に値する仮説と思いました。

いつか仮説の正しさが証明されたのち、それでは「躁うつ病はどうであるのか?」「気分変調性障害は?」といった疑問が湧(わ)いてくることになるでしょう。

また、「適応障害」の名称は消滅し「炎症の派生症状」に替わるかもしれません。

うつ病は世界のどの国においても女性のほうが男性より罹患しやすい疾病なのですが、当該趨向(すうこう)に炎症はどう関与しているのか、という問いも頭をもたげてきます(生理が関与?)。

さらに、わたしは高校・大学のラグビー部時代に擦り傷やケガが多く、炎症がなかった日なんてなかった数年間を送ったのに、重いにせよ軽いにせよ抑うつ状態を経験しなかったのはなぜなのか?

うつ病を患ってしまっていた時期は、知らないうちに身体のどこかで炎症が生じていたのか?

学問的にも個人的にも明らかにしたい謎があれこれ浮かんできます。

高度な専門書に接する醍醐味をあじわえました。

いっぽう、異議がふたつあります。

まず、ブルモア氏は、うつ病の治療法が旧態依然としている旨の指摘をなさりつつ、

それぞれのうつ病のさまざまな根本原因を無視して、SSRIや認知行動療法といった単一の治療が、すべての患者に最高の治療をもたらすことなどあるわけがない。(pp.236)

認知行動療法家のわたしは「あるわけがない」事実を喜んで認めます。

ただ、現今「単一の治療」ぐらいしか手段がないのです。

つぎの異議。

発病したわたしたちの祖先、つまり「患者」は部族から一時的に離れて引きこもることで、社会的義務や争いを課されることなく、体を休めて全力で感染症を撃退することができたと考えられる。(pp.204)

氏は、数百万年前の人類に「炎症→うつ病」のメカニズムが成立した経緯を、上記のように想定されました。

しかし、うつ病には残念ながら自殺につながりやすい傾向がともない、これは「体を休め」「撃退する」自己防衛の働きを御破算にしてしまうわけですから、本末転倒で、彼の想定には首肯しがたいものがあります。

いずれにしても本書にたいそう興奮させられました。

そこで、ただいまより、わたしが卒読した「臨床心理学・精神医学」書籍のうち最も知的刺激に満ちていた10冊を選別する行為にて、ゆっくり心を落ちつかせます。

以下、外国人が執筆した作品のみに限定したうえで、知的な刺激が高かった順にならべました。

第1位 カール・ヤスパース著『精神病理学原論』、みすず書房(1971年)

第2位 ハリー・K・ウエルズ著『パヴロフとフロイト』、黎明書房(1966年)

第3位 J・ウォルピ著『神経症の行動療法:新版 行動療法の実際』、黎明書房(1987年)

第4位 ハンス・J・アイゼンク著『精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落』、批評社(1988年)

第5位 E・F・ロフタス、K・ケッチャム共著『抑圧された記憶の神話:偽りの性的虐待の記憶をめぐって』、誠信書房(2000年)

第6位 ルーシール・B・リトヴォ著『ダーウィンを読むフロイト:二つの科学の物語』、青土社(1999年)

第7位 デイヴィッド・ホロビン著『天才と分裂病の進化論』、新潮社(2002年)

第8位 ロルフ・デーゲン著『フロイト先生のウソ』、文春文庫(2003年)

第9位 ロブ・アンダーソン、ケネス・N・シスナ共著『ブーバー ロジャーズ 対話』、春秋社(2007年)

第10位 オリヴァー・サックス著『レナードの朝』、早川書房(2000年)

ジークムント・フロイト(1856~1939)および彼の門人たちの主張を否定する読物が多めです。

批判心が旺盛すぎるわたしの「不徳の致すところ」に加え、『「うつ」は炎症で起きる』でも、

治療期間は長すぎるし、費用もかかりすぎる。それに、理論的に効果のほどを裏づける証拠も、他の心理療法よりも優れているという証拠もほとんどない。(pp.107)

という糾弾がなされていました。

金原俊輔

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