最近読んだ本442
『教養脳:自分を鍛える最強の10冊』、福田和也 著、文春新書、2021年。
文芸評論家でいらっしゃる福田氏(1960年生まれ)は、「文芸」を超え、対象がなんであろうと「評論」できる、ケタはずれな学識をおもちの書き手です。
上掲書の場合はまさしく文芸評論で、わが国の『万葉集』から始まり、ダンテ・アリギエーリによる『神曲』を経て、マルティン・ハイデガー著『存在と時間』へといたる、全10冊の批評がおこなわれました。
まず、私が考えさせられたのは、副題「自分を鍛える」という言葉。
いまどき自分を鍛えようとして読書する人たちが、いったい、どれほどいるでしょうか。
若者にかぎらず、年配者においても、読書をする、ましてや難しい本を選んで読む、こうした習慣を失いつつあります。
失ってはいけません。
理由は?
確かにスマホで調べれば、この本で取り上げた十冊の本の内容はすぐ分かるだろう。しかし、そこで得られるのは情報に過ぎない。しかも数分後には忘れられている。そんなものは何の役にも立ちはしない。
難しい本と長い時間をかけて対峙した結果、自分の中に生じる共感や反発は、他人に対する想像力につながる。これこそが教養の要なのだ。(pp.5)
ご主張に賛同します。
さて、福田氏は『万葉集』第一巻巻頭に置かれている長歌を取りあげ、
春のある日、岡で菜を摘んでいる娘たちの中の一人を、そこを通りかかった雄略天皇がみそめ、声をかける。「家と名前を申しなさい。この大和の国は全て私がおさめている。まず私から名乗ろう」といったことになるが、単に声をかけているのではなく、天皇は娘に求愛をしているのである。(pp.22)
と、お書きになりました。
私は今回初めてこの歌に接し「たしかに求愛ではあろうけれど、もうすこし軽めの『ナンパ』っぽい雰囲気だな」と感じました。
しかし、著者の解説はぐいぐい進み、
天皇と娘の結婚の後には子孫繁栄がある。それを五穀豊穣と重ね、祈りの歌とした。(中略)
つまり、巻頭のこの歌は天皇の歌というよりは民心の歌なのである。(pp.22)
鋭い分析をしめされました。
当方の薄っぺらな感想など粉砕されてしまったわけです。
いつもと同じく中身が濃厚な一冊でした。
ところで、福田氏の深い教養にはおよびもつかないものの、さすがに心理学領域でしたら、私とて知っているような事柄があります。
氏は、アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)の小説を考察されるなかで、ヘミングウェイはアメリカ合衆国の、
イリノイ州のオークパークに育ち、1917年、地元のハイスクールを卒業(後略)。(pp.120)
こう記されました。
かつて日本で人気があった臨床心理学者カール・ロジャーズ(1902~1987)もまたイリノイ州オークパーク生まれです。
オークパークは小さな町(というか、村)ですから、ヘミングウェイとロジャーズは若き日にどこかですれちがったりしたのではないでしょうか。
以上が教養とは無縁な話であることは自覚しております。
金原俊輔