最近読んだ本531:『歴史学者という病』、本郷和人 著、講談社現代新書、2022年

上掲書は、著者の本郷氏(1960年生まれ)が、

高田里惠子 著『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』、ちくま文庫(2006年)

小谷野敦 著『文学研究という不幸』、ベスト新書(2010年)

こうした書物を意識なさりつつ執筆されたものではないでしょうか?

氏も、高田氏(1958年生まれ)や小谷野氏(1962年生まれ)も、みなさん東京大学の卒業生で、3者は世代が近く、身を置いていらっしゃる学問領域とて離れていないですし。

そもそも3冊のタイトルが似かよっています。

以上を前提に、『歴史学者という病』は、直接的には、やはり東京大学の歴史学分野ご出身である與那覇潤氏(1979年生まれ)が発表した、

與那覇潤 著『歴史なき時代に:私たちが失ったもの 取り戻すもの』、朝日新書(2021年)「最近読んだ本450」

を念頭にお書きになった作品のように思われます。

與那覇氏は『歴史なき時代に』で歴史学の実証志向に疑義を呈され、本郷氏は「『良い実証』は、とても大事(pp.197)」、こう(あたかも與那覇氏への反論のごとく)主張していらっしゃるからです。

本郷氏のご意見を見てみましょう。

歴史学とは、ロマンや感情による歴史事象の解釈ではなく、ひたすらに科学的な実証をもって成すべし……というのが歴史学の第一段階である。(pp.81)

繰り返し言っておきたい。現在の歴史学の主流は実証を重んじる「科学」なので、人間の内面にこだわってはいけない。(中略)
科学としての歴史学とは、一級史料を精読して帰納的に考えていく手法である。(pp.84)

それでは感情(物語)と行動(歴史学)の切り分けはどのように行うべきなのか……これは歴史学のとくに重要なポイントの一つ(後略)。(pp.84)

まるで、大学心理学科の新入生に、教壇の行動主義心理学者が教え諭(さと)しているみたいなセリフでした。

「行動」という言葉すら使われています。

行動主義心理学者であり、「実証は科学の基本、科学の要件を満たすには多数の事実を集めて結論にいたる帰納法の手段が有用」と信じるわたしは、全面的に同意する文章でした。

ただ、歴史学は果たして科学(社会科学)なのか、それとも人文学なのか……、書中で展開された左記議論、部外者のわたしには解の見当がつかず、こちらがうかがい知れない桎梏(しっこく)もあるのだろうと想像します。

心理学の場合、自然科学と人文学のふたつに完全分離しており、ふたつは最初から別々だったので「切り分け」の必要はありませんでした。

いまのところ両者の統合はなされておらず、ずっと二本立て、そして社会で真に役立っているのは自然科学(を土台にしたテクノロジー)側の心理学です。

人文学陣営の「物語」っぽい心理学のほうが心理学と思われがちなのですが……。

話を戻しましょう。

『歴史学者という病』は、著者が歴史学を専攻しだした経緯、東京大学の雰囲気、学問をいかに修得するか、学界とはどういう人々の集まりか、国の大学院改革がもたらした弊害、などを詳述した本でした。

末端で蠢(うごめ)いていただけながらも学問に関与してきたわたしにしてみれば、興味が尽きない内容。

著者の(お持ちであって当然な)プライドが『歴史学者~』あちこちで垣間見え、第4章内の「『博士号』の激しすぎるインフレ」項では、

ひと昔前と比べれば「実態は努力賞」に過ぎない博士号所持者も実に多く見られる。(pp.164)

きびしいお言葉なものの、わたし自身「努力賞」として博士号をいただいた口であり、自分は博士の学位にそぐわないと寂しく認めているため、反論できません。

大学に残るためのポストが激戦区となり、大量の高学歴ワーキングプアを生むことになった。「非常勤残酷物語」とか言うが、私から言わせれば、学問の一定のレベルに達していない人間が大学に残ろうとしてもそれはうまくいくはずがない(後略)。(pp.218)

これまた辛辣(しんらつ)な……。

金原俊輔