最近読んだ本374

『現代日本を読む:ノンフィクションの名作・問題作』、武田徹著、中公新書、2020年。

ノンフィクションが大好きなわたしには堪(こた)えられない一冊でした。

現代の各種ノンフィクションより23冊を選び、折々の社会の動向に照らし合わせつつ、分析・批評をする。

そうした内容です。

分析や批評が重厚で、たとえば「第6章 虚構と現実を超えた評価軸の可能性」。

著者(1958年生まれ)は、「東日本大震災」被災者たちの証言集に載っている言葉を「他の人が利用することなどできない(pp.159)」という主張に共感を寄せながらも、

その一方で、言葉とは社会的に構築されてきた一種の公共財であり、それを使用する権利は著作権法や引用参照の慣例の許す範囲で公共空間に開かれてもいる。そうした開かれた性質があったからこそ、個々の人々の経験を踏まえて作り出され使われてきた言葉が別の経験との接続を生み出すことによって、創作、文芸の歴史が刻まれてきたこともまた歴史的事実である。(pp.159)

深淵な洞察を示されました。

直前の「第5章 アカデミック・ジャーナリズムの可能性」に上記「公共空間に開かれ」「別の経験との接続を生み出す」件を盛りこめば良かっただろうに、とは感じます。

アカデミズムでは、肯定的「引用参照」が多ければ多いほど、当該論文なり書籍なりの価値が高まるわけですから。

このアカデミズムおよびジャーナリズムを論じた第5章、わたしが見るところ、『現代日本を読む』において唯一、鋭さが不足していました。

章内にて、たしかに、著者はアカデミズムとジャーナリズムの相違をきちんと考察しておられます。

しかし、アカデミズムは自然科学・社会科学・人文学に分けられ、おそらく自然科学側から眺めれば人文学とジャーナリズムにそれほど差異があるようには映らず、また、社会科学は社会科学で自分たちの学問領域はジャーナリズムを包含すると認識しているかもしれません。

つまり解説が万全ではなく、境界があいまいなままなのです。

自然科学の話題が詳細に語られたのは「第8章 科学ノンフィクションは科学報道を超えてゆく」。

理化学研究所所属の研究者による「STAP細胞」データ捏造事件を中心に置き、

科学が社会的に大きな影響を与える「事件」が起きる。そのとき、科学記者たちは社会部から派生した出自に立ち返るかのように社会問題として科学を扱う。「事件」が注目を集めれば、それに応じて多くの紙面が与えられるので、科学者の言うことを噛み砕いて紹介するだけではなく、独自取材の成果を書ける事情もある。(pp.230)

引用のごとき内輪の話も交えたのち、科学報道に関して冷静かつ網羅的な意見を開陳しておられます。

しっかりした構成でした。

それはそうと、

清水幾太郎の『流言蜚語』(1937年)という、フェイクニュース論として読まれていれば実に示唆に富んだ論考が存在していた。だがフェイクニュースと流言飛語を結びつける連想が働かなかったために、フェイクニュースが流行語になってもほとんど言及されることがなかった。(pp.204)

わたしは学生時代、

清水幾太郎著『流言蜚語』、日本評論社(1937年)

を熟読しました。

にもかかわらず、無念ながら「フェイクニュースと流言飛語を結びつける連想が働かなかった」ひとりです。

金原俊輔

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