最近読んだ本587:『「低学歴国」ニッポン』、日本経済新聞社 編、日経プレミアシリーズ、2023年

日本教育界の深刻な混迷を語り、それが産業の停滞や研究力の低下にもおよんでいると指摘した作品です。

教育にまつわる諸問題を縦横に俯瞰してくださっていて、おかげで、読者がいろいろ考えさせられる内容でした。

たとえば、大学入試に関する項。

明治維新後や敗戦後の「欧米に追いつけ追い越せ」だった時代は、必ずある正解に早く到達できる能力を競わせる一般入試が有効だった。だが日本社会が成熟し、欧米のお手本に頼れない時代には、正解があるかどうかも分からない問題に取り組む力が重要になる。暗記や正答パターンの詰め込みに陥りがちな受験勉強を脱し、思考力や学ぶべきことへの意欲、問題を解決する力などを多面的に評価する入試への転換が求められるようになった。(pp.122)

求められた結果、「面接や書類審査などを組み合わせて人物重視で選考(pp.119)」する「総合型選抜(pp.119)」と呼ばれる入試が盛んになりました。

かつて大学に勤めていたわたしはこういう趨向(すうこう)を体験したのですが、趨向に疑問を感じています。

なぜかといえば、当方「思考力や学ぶべきことへの意欲、問題を解決する力」はしっかりした基礎教育が土台にあってこそ花開くもの、したがって「暗記や正答パターンの詰め込みに陥りがちな受験勉強を脱し」てはならない、と思っているからです。

じじつ、総合型選抜が定着した大学では「基礎学力が足りない学生が増えた(pp.123)」由ですし、そのような基礎学力が足りない学生たちは、おそらく「正解があるかどうかも分からない問題に取り組む力」も不十分なのではないでしょうか?

わたしの想像には偏向があり、または意見が直截すぎるかもしれないものの、そんな可能性を考慮すべきです……。

ところで「暗記や正答パターンの詰め込み」は、明治維新後に初めて現われた教育法ではありません。

江戸時代の寺子屋は暗記重視。

緒方洪庵(1810~1863)の「適々斎塾」みたいな蘭学塾は詰め込み式。

教育をおこなう際に暗記や詰め込みの強要は避けられないのです。

そして、幕末以降「正解があるかどうかも分からない」なかで日本社会を牽引してきた人々の大多数は、暗記・詰め込み教育を勝ち抜いた学歴エリートたちでした。

それを思うと、教育施策は、既述の総合型選抜だの「ゆとり教育(pp.88)」だのとおたおたせず、基本、いままでのやりかたを推し進めてゆくほうが良いだろうと言わざるを得ません。

こうした流れで、わたしは、

小松光、ジェルミー・ラプリー 共著『日本の教育はダメじゃない:国際比較データで問いなおす』、ちくま新書(2021年) 「最近読んだ本408」

にて述べられていた主張を支持いたします。

金原俊輔