『日本衆愚社会』、呉智英著、小学館新書、2018年。

呉氏(1946年生まれ)は、わたしが最も尊敬する評論家です。

卓見の士で、軽妙なレトリックを用いながら多方面にわたる評論をなさってきました。

とりわけ「正確な言葉づかい」に重きを置かれている模様です。

最近は『論語』解題以外のご出版物がなかったため、ものたりなく思っていました(『論語』には興味がないので読んでいません)。

このたび、書店でひさびさの新刊に気づき、これはわたしにとって「真打ち登場!」的なできごとでした。

購入後ただちに読みだし、期待したとおり、抜群のおもしろさを堪能しました。

わたしより10歳ちかく年上(つまり70歳代前半)でいらっしゃるのですが、ご健筆ぶりに変わりはなく、巧みな言い回しも冴え、衰えを示しておられません。

どう堪能したか、例として、ひとつの(やや軽めな)話題を引用します。

第二部「俗論を疑え」章の「大学に通う生徒たち」の項。

市立三重短大の教授が「安保関連法反対の有志の会」連絡先を、自身が勤務する短大の研究室とした件に関し、

自民党の小林貴虎市議が市議会で教育基本法に反すると指摘。朝日記者の取材に小林市議は次のように答えている。
「市の税金で運営する短大。教員は生徒の技能を伸ばす職務に邁進すべきだ」
その通りだと思う。未熟な生徒しかいない学校で教員が政治活動をするのはいかがなものか。学生ともなれば自主的な判断ができるからいいが、相手が生徒じゃ、やはりまずかろう。というよりも、三重短大に生徒が通学していることはもっとまずかろう。(pp.74)

要するに、短大生は「学生」であって「生徒」ではないのです。

この認識不足または言い間違いをつらまえ、著者は、低レベルな大学や短大の現実を皮肉たっぷりに語り、勉強不足である議員をからかい、仏教の学生(がくしょう)という読みかたまでをも教示して、ご意見を展開されました。

こうした知的な辛らつさが呉氏の持ち味です。

なお、氏は三重短大を低レベル短大に含んではいませんでした。

話は移ります。

わたし程度の読者では、呉氏が発される議論の背景にどんな教養が潜んでいるのか、わからない場合が少なくありません。

著者は、誤読をさす「百姓読み」なる言葉について、「これは『たくさんの姓』すなわち庶民ということだと思う(pp.221)」と述べられ、農民を意味してはおらず、したがって差別語にはあたらない、と指摘されました。

そして、

医学界では「口腔(こうこう)」を「こうくう」と読む。(中略)百姓読みではなく「口孔(こうこう)」と区別するためだとする説があるが承服できない。それなら「腹腔(ふくこう)」を「腹腔(ふくくう)」と読むのは何と区別するためか。
百姓読みと医者読みの違いについて森林太郎博士にでも尋ねてみたいところである。(pp.221)

このようにお書きになっています。

森鴎外(1862~1922、本名:森林太郎)は医者でした。

しかし、農家の出ではなく、庶民だったわけでもありません。

なぜここで彼の名前が登場してきたのか、残念ながら、わたしには理解できませんでした。

きっと鴎外は名前を使用されるのが当然な何らかのエピソードを有しているのだろうと想像します。

金原俊輔